【読書感想文】北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か:不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』

 これまで批評理論に関する本で読んだことのあるものは、廣野由美子『批評理論入門:『フランケンシュタイン』解剖講義』だけ。この本は、さまざまな小説技法と批評理論を紹介しつつ、それらを実際に、メアリー・シェリーの古典的名作『フランケンシュタイン』の読解のなかで具体的に示していくという、とても「真面目」な良書だった。これに対して、本書(『お砂糖~』)はサブタイトルに「不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」とあるように、古典的名作だけでなくバーレスクやハリウッド映画を対象にして軽妙な語り口で、具体的にフェミニスト批評を実践していく「不真面目」な良書だった*1

 本書は、具体的な批評をとおして、批評の楽しさを教えてくれる。本書は「フェミニスト批評入門」とあるように、「フェミニスト」的な観点から批評している(また本書にはクィア批評も含まれる)。また、「フェミニスト批評」では「男らしさ」も問題にもなるため、さまざまな文学や映画などで「男らしさ」の問題も浮き彫りにされる。

 本書の数あるおもしろいところのうちの一つは、例えばウェブ上で話題となったテーマを皮切りに、それらのテーマを過去の作品のなかに見出していくところ。例えば、2015年くらいから流行っている「キモくて金のないおっさん」(「弱者男性」の類義語?)が実は、昔から古典的作品をとおして様々に語られてきたことが浮き彫りにされる(60 ff.)。また少し古い言葉かもしれないが「ツンデレ」についても、シェイクスピアの『十二夜』を題材に、そのなかでどのように「ツンデレ」が描かれているのかが示される(115 ff.)。フェミニズムが扱う論点が現代的であるから(あるいは長いことマジョリティから無視されてきたから)か、本書が扱うテーマはどれも現代と地続きでおもしろい。

 また本書では、著者自身の個人的なエピソードも書かれていて、そこに勝手ながら親近感がわいた。例えば本書の一節目にあたる「さよなら、マギー:内なるマーガレット・サッチャーと戦うために」では、著者のなかにある「内なるマギー」(22)について語られる。マギーとはマーガレット・サッチャーのことで、サッチャーは「帝国主義、差別、弱者の搾取といったものを象徴する存在と見なされており、フェミニズムセクシュアルマイノリティの権利にとっては敵」(23」と見なされている。著者のなかの「内なるマギー」は、「私〔著者〕の心の中にある男社会でバカにされず立派な人間として認められたいという野心を象徴」(25)する。なぜ著者自身のなかに「内なるマギー」がいるかというと、著者の分析によれば、著者自身とマギーとの境遇が似ている点にあるよう。また『嵐が丘』を著者が高校生のときに、同小説を「エロティック」なものと読んでいたという話(またそれが実は「腐女子」または「スラッシャー」的読解によるものだったという分析)もおもしろい(35 ff.)。このようにところどころで著者自身のエピソードが織り交ぜられるので、批評を読んでいながら質のいいエッセイも読んでいるようで、楽しさが尽きない。

 「批評」という営為についての著者自身の捉え方も、とてもいいとおもった。著者は「批評」という営為を「探偵」になぞらえて、次のように言う。「批評のいいところは、完全に解決されたケースはないということです。[...]一見、完璧に筋が通っているように見える説得力ある読みでも、よく考えるとさらに面白い読みが提示できる可能性があります。」(224)。私たちは「完全に解決」されることを望みがちだけれども、著者は「完全に解決されたケースはない」というところを「批評のいいところ」と言う。説得的で面白い読みが可能であればあるほど、その作品の奥深さの証明にもなるし、その作品を読む人間の面白みでもある。もちろん著者が言うように「批評する時の解釈には、正解はないが間違いはある」(12-13)。書かれたことや映された映像など、すでに形づくられたテクストのなかから、どれだけ多様でおもしろい読みを提示できるのか、それが「批評」なのだろう。本書を読んで、本書で扱われている作品を本書で得た視点で見直したいとおもうとともに、そのときには自分なりの視点でも読み解きたいとおもった。

 

参考文献

北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か:不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』書肆侃侃房、2019年。

*1:著者は『批評の教室:チョウのように読み、ハチのように書く』という本も書いており、どちらかというとこちらの方が廣野本と比較されるべきかもしれない。