"Fuck the Police" :『アス』(ジョーダン・ピール監督、2019年)

 

1. あらすじ

 ジョーダン・ピール監督による『アス』は、前作『ゲット・アウト』と同様に、ホラー作品でありながら、独特なアイディアを用いて社会的な問題を盛り込んだ作品。

 話は1986年の夏から始まる。主役となるアデレード・ウィルソンは少女時代に、両親とともに海辺の遊園地に遊びにやってくる。アデレードは、そこで両親とはぐれ、少し離れたところにあるミラーハウスに入り込む。そのなかでアデレードは、鏡に映る自分と同じ自分以外の誰かの後ろ姿を目にする。そして時は経ち現在、アデレードルピタ・ニョンゴ)は、パートナーと子ども二人を持つ。しかし幸せそうなアデレード家族のもとに、ある日、彼女/彼らと同じ姿の赤い服をきたクローンがやってきて、彼女/彼らを襲撃する...

 

2. Anthem

 今まで見たホラー映画のなかで一番好きな曲は、ルチオ・フルチ監督『ビヨンド』のメインテーマ『Voci Dal Nulla』だった。この曲は、とても聴きやすい美しいメロディでありながら、どこか心を不安にさせて心拍数を速める。『アス』のメインテーマ『Anthem』も、同じように一回聴いたら忘れられない美しいメロディで、しかも畏れを抱かせる曲調になっている。序盤の1986年のシークエンス、アデレードが自分と瓜二つの自分以外の誰かと遭遇し戦慄したところで、その次のカットで白いウサギが映し出され、このメインテーマが流れる。このアバンタイトルで、何かとてつもない映画が始まってしまったと観客に予感させる。

 

以下、ネタバレあり

 

3. 豊かな「私たち」と周縁化された「彼女/彼ら」

 さんざん論じられているように、前作『ゲット・アウト』が複雑な人種差別問題を扱っていたのに対して、本作品は、幸せなウィルソン家と、地下で閉じ込められながら辛い生活を送っていたクローンたちとの対比のなかで貧困や格差を描いている。クローンたちは、「私たち」の豊かさのなかで犠牲になりしかも不可視化されてきた貧しさの象徴であり、「私たち」のあり得たかもしれない貧困の象徴でもある。実際、最終的に幸せな家族をもつアデレードは、実は、1986年の夏にミラーハウスにやってきたオリジナルのアデレードと入れ替わったクローンアデレードであり、幸せなクローンアデレードの家族を襲撃するアデレードはミラーハウスに迷い込まなければ幸せな人生を歩めていたのかもしれない(ただしこのことは最終版にようやくクローンアデレード自身によって思い出される)。

 そのため、襲撃するクローンたちにはどこかもの悲しさがある。例えばタイラー家を襲撃したクローンキティ・タイラーは、襲撃がひと段落すると、化粧台の前に座り幸せそうな顔で口紅を塗る。クローンキティにとって、化粧は地下の貧困生活ではできず、長年憧れていたことだったのだろう。その姿は、”おぞましい”襲撃者の背景にそれにいたるまでの苦しみを想起させる。

 

4. Fuck the Police

 前回の『ゲット・アウト』の記事ジョーダン・ピール監督が、よくあるホラー映画のラストのように警察を登場させることをせず、むしろ警察に対して批判的なまなざしを向けているということを指摘した。本作『アス』でもこの精神は引きつづいている。実際、今回もウィルソン家をレッド一家が襲う序盤で「911」に電話するが、「十数分かかる」と言われてしまい、しかも結局いつまで経ってもこなかった(それはウィルソン家以外のいたるところでも赤服のクローンたちの襲撃があったからなのだが)。そして極めつけは、本作一番の爆笑ポイント、スマートスピーカー「オフィリア」の大活躍シーンだ。

 ウィルソン家が襲撃から逃れているのと時を同じくして、ウィルソン家と親しい近所のタイラー家にも、同じようにタイラー家のクローンが襲撃していた。昼間はビーチで楽しくすごしていたタイラー家は無残にもころされてしまう。タイラー家の母親キティは最後の力を振り絞って、自分にとどめを刺そうとするクローンに”Stop”と懇願する。すると、クローンではなく近くのスマートスピーカー「オフィリア」が、それまで流していた曲を”stop”する。スマートスピーカーが使えることに気づいたキティは、オフィリアに最後の力を振り絞って、”call the police"と呼びかける。するとオフィリアはN.W.A.のクラシック『Fuck the Police』を流し始めてしまう。

 ホラー映画では、追ってから逃げようとするときに、車を見つけて逃げようとするも、エンジンがなかなかかからないといった、うまくいかないシーンがいくつかあるが、スマートスピーカーでそれをやるのは斬新だった。

 このシーンは、爆笑ポイントではあるけれども、やはりジョーダン・ピール監督自身の警察への批判的なまなざしが表れているように見える。ジョーダン・ピール監督は、警察が助けに来てくれないことを描くだけでなく、N.W.A.の口を借りて”Fuck the Police”と言ってのけるのだ(もちろんこれは前回の記事でも言ったとおり、黒人の人々に対する警察による不当な行為の長い歴史が背景にある)。