【読書感想文①】坪光生雄『受肉と交わり:チャールズ・テイラーの宗教論』(勁草書房、2022年)

 

 

0 はじめに

 本記事では坪光生雄『受肉と交わり:チャールズ・テイラーの宗教論』(勁草書房、2022年)を扱う。書いていたら長くなってしまったので、本記事では『受肉と交わり』(以下、本書)の全体の概観と第I部の要約を書く。

 さて本書の目的は、坪光生雄(以下、著者)によると、「現代のカナダを代表する哲学者チャールズ・テイラー(1931-)の宗教論を理解すること」(2*1)だとされる。そして本書で、とりわけ扱われるのは、『世俗の時代』(原書2007年;邦訳2020年*2)である。実際、本書で幾度となく言及されるテーマは、テイラーのカトリシズムや「世俗化論」に関する議論である。とはいえ、本書は特定の学問分野の研究として片付けることはできない。本書は、チャールズ・テイラーその人の記述がそうであるように、あるいはそうであるがゆえに、様々な分野にまたがる研究となっている。それは宗教学または宗教社会学、神学、政治学、文学、哲学(そのなかでも認識論や存在論そして歴史哲学)など、議論領域は多岐にわたる。しかも本書のそれぞれの論考が、各分野に対応するということではなく、それぞれの論考でこれらの議論領域が複雑に絡み合っている。

 「チャールズ・テイラー」という名前を聞いて、テイラーその人にあまり慣れ親しんでいない私でもすぐに思いつくのが、政治理論分野での「多元主義」というキーワードである。本書はこうしたテイラーのよく知られた立場を、たんなる政治理論としてではなく、その背景にあるテイラー自身の宗教学あるいはカトリシズムから解きほぐそうとするものである。これを聞いて本書を手にとるのをやめてしまう人もいるかもしれない。しかし、それがもし「方法論的無神論」のような態度にもとづくのであれば、まさにその態度がどのような「物語」に基づいているのかについての反省も本書は促してくれる、という意味で本書を手にとるのをやめてしまおうと考えた人にこそ本書を手にとってほしい。

 まずは出版社である勁草書房の関連サイトで無料で掲載されている本書の「はじめに」(リンク)を読んでいただきたい。ここで本書の全体像、また文体、そして思考の癖をうかがい知ることができるだろう。いま「思考の癖」と言ったものは、次のような著者の論述の態度のことである。著者は、一方でいわゆる「アカデミック」な”常識”からすれば宗教的にかなり立ち入った議論をしているが、他方でその論述は誠実な「留保」をともないながらきわめて反省的できわめて抑制的である。本書を読んで分かることは、まさにこうした論述の態度こそテイラーの思考の手つきでもある、ということである。著者自身「はじめに」の最後で次のように言う。

このような留保のつけ方がどこかテイラー的だとすれば、本書が取り組むのは、テイラーについての研究であると同時に、こう言ってよければ、それ自体テイラー的であるような研究である。(16)

 さて、以下ではまず本書の全体の概観を示し、それから第I部の各章の感想を書く。なお、本書あるいはテイラーに対する私自身の疑問点も書いているが、これは当然、私の読解が不十分であることに起因する可能性もあることを断っておく。

 

1 各章の概要と感想

 各章の概要に入る前に、各部の概観を説明することで全体の見通しをよくしたい。本書は第I部「宗教」(第一章、第二章、第三章)と、第II部「認識、政治、言語」(第四章、第五章、第六章)、そして第III部「宗教学と世俗性」(第七章、第八章)、これら三つの部からなる。

 第I部では主に『世俗の時代』が取り上げられ、テイラー自身の「世俗化」の「物語」の内実や、政治的な多元主義とその背景にあるテイラー自身の「信仰」が明らかにされ、そしてテイラーのカトリシズムに裏打ちされた「受肉」と「交わり」の信仰(これがテイラーの哲学的・政治的多元主義につながる)が明らかにされる。つまり、第I部では、それ以降の議論で幾度となく言及されることになる、テイラー自身の基本的な思想が『世俗の時代』を通して明らかにされる

 第II部では第I部で明らかにされたテイラーの諸思想が、テイラーのその他の著作でどのように変奏されているのかが示される。そのため、第I部が比較的、宗教学の度合いが高かったとすれば、第II部は例えば認識論や政治理論あるいは言語哲学などよりその他の学問領域の研究という色合いが強い――もちろんだからといってテイラー自身のカトリシズムが脱色されるわけではない。それゆえ、宗教論にうまく馴染めない人でも、第II部の議論は比較的興味深く読むことができるだろう。

 第III部では、テイラー自身の学問的方法が話題になる。さらに「ポスト世俗」という流行語のさまざまな用例を見るなかで、テイラーにおける「ポスト世俗」の方向性が示される。

 以上のように見ると、本書は第I部でテイラーの宗教論からテイラー自身の基本的な諸思想を明らかにし第II部でそれらの思想を宗教論とはまた別の議論文脈に位置づけなおす、そして最後に第III部でこれまでのテイラーの学問的方法を反省するというきわめて理に適った構成になっている。それでは以下で具体的に各章の概要と感想を述べていく。

 

1.1 第一章 「世俗化を語り直す――概念と歴史」

 本章は、タイトルにあるように、従来の支配的な「世俗化論」をテイラーがどのように語り直すのかが示される。支配的な「世俗化論」は「減算の物語」(26)と呼ばれる。というのは、この物語においては、自然科学の発展やそれにともなう「近代化」によって、それまで支配的だった宗教の信ぴょう性が崩れ、宗教が衰退する(=「宗教がいわば引き算される」(26))という物語が語られるからである。しかしこうした支配的な「世俗化論」にはすでに批判もある。例えばホセ・カサノヴァは『近代世界の公共宗教』*3において、具体的に現代のスペイン、ポーランド、ブラジル、アメリカなどを検討することによって、宗教がたんに私事として縮減されたり(私事化)、衰退したりするのではない状況を示している。実際、私たちもアメリカの政治状況をニュースで見るたびに、そこに宗教の力が動員されていることを目にする。またユルゲン・ハーバーマスも宗教がその重要性と妥当性を失うという支配的な「世俗化論」を批判し、「リベラルな民主制の政治的正当性の基礎づけにあたって、宗教がある種の制限のもとで公共的討議に参与することは必須」(23)だとする*4

 支配的な物語に対して、テイラーが語る物語は、「世俗性の主たる淵源」をカトリック教会のなかで生じた広汎な「改革」に認め、そこから「不信仰=排他的ヒューマニズム」がいかにして人々の「有力なオプション」となったか、を語り出す(41)。この物語に対しては別の物語の可能性ももちろんあるが、私にはこの物語はとても興味深く、耳を傾けるべき物語だと感じられた。

 テイラーの物語のなかで重要な転換は「多孔的な自己」から「緩衝化された自己」への転換である。テイラーは、現在の「脱魔術化」された世界(自然科学中心のいわゆる「近代」)に対して、それ以前の世界を「魔術的な世界」と呼ぶ(38)。この魔術的な世界は、「霊や道徳的な諸力」に満ちているとされ、人々は例えば聖水や聖遺物のような霊的なものによって、傷ついたり癒されたりする。このように自己と世界との境界線が曖昧で、世界からつねに干渉される自己が「多孔的な自己」と呼ばれる(38)。これに対して、脱魔術化以降の世界では、いわゆるデカルト的な主観と客観の二元論に代表されるように、自己(心)と客観的世界のあいだには境界線がはっきりと敷かれ、自己は世界の外的な諸力から守られて、つまり「緩衝」されている(39)。このような自己が「緩衝化された自己」と呼ばれる。そのためテイラーにとって、ウェーバー由来の「脱魔術化」は、「経験や認識のモードの変容とその固定化、「多孔的な自己」から「緩衝化された自己」への移行」に関わるとされる(39)。

 ところでここで私としては疑問が生じた。「緩衝化された自己」と「多孔的な自己」という明確な区別はありえるのだろうか。本書では孔が開かれているのは、「魔術的なもの」に対してだという想定に立っているように見える。しかし「魔術的なもの」以外にも私たちは様々な言説や拡散するイメージなどに開かれたままなのではないか。「緩衝化された自己」という自己像もまた、そうした”近代的な自律”や”マッチョな自己”あるいは”自己責任論”などの多種多様な言説やイメージによって侵された結果なのではないか。もちろんテイラー自身は「緩衝化された自己」に対して批判を加えるものの、近代がそうした自己像のありようをしているという点については認めているようにも見える。実際、著者も「私たちが現在の「緩衝化された自己」を捨て去り、再び「多孔的な自己」を生きるようになることは可能だろうか」(358)といった問いを立てている。ここには現在の私たちが「緩衝化された自己」であるという事実認識がある。反対に、もしテイラーの主張が、〈近代は「緩衝化された自己」という自己像を打ち立て、「多孔的な自己」を棄て去ったつもりでいるが、しかし実際のところ近代においても人は「多孔的な自己」でありつづけている〉というものであれば、私の疑問は生じないがそうなってはいない。

 さて、こうした「世俗化」の物語が行きつく最終局面は、「既存の外在的または超越的な規範への適合よりも、自己自身の選好、個性の表現、内面的/感情的な充足等に重要性が置かれる」時代、すなわち「本来性の時代」である(64)。つまり、聖なるものへの信仰は所与のものではなく、当人が当人自身の心に響いたときに選びとられたものだということになる。実際、「制度化された「宗教」に対抗する「スピリチュアリティ*5」(68)は現代に広くありふれている。ここで私が興味深いと感じたのは、テイラーがこの「スピリチュアリティの真正性を擁護する」(69)という点である。しかも興味深いことに、テイラーは「スピリチュアリティ」のなかにテイラー的な意味での「宗教」*6を見出そうともする(69)。このように伝統的な実定宗教だけでなく、スピリチュアリティも含む非伝統的な宗教も、「会話」の発話者となることができるという点は、ハーバーマスとの違いにもなる*7

 ただし、テイラーは「この時代における霊=精神的なもののすべてが、必ず集団的ないし社会的なつながりを欠いた携帯をとって現れる」とは考えない(70)。例えば諸個人がそれぞれが探求する自分のスタイルを呈示しあい(「相互呈示」(66))、相互に共鳴し合い「集合的沸騰」(66)に至ることもありうる。その際に、各人は「何らかの集団的な忠誠の形を、個人的な充溢の求めに応じ、いわばあえて選び直す」(70)ことになる。

 以上のことからすると、「世俗の時代」においては、伝統的な宗教も、スピリチュアリティも、非宗教的なものも多様な形態をとりながら、すべてが各人のオプションとなりうる。「世俗の時代」の特徴は、こうした「オプションの多元性がもたらすナイーブな確信の動揺」(73)である。つまり、各人はどのオプションを選ぼうとも、もはやそのオプションを唯一のものとしてナイーブに確信することはできず、つねにその確信を動揺させられるということ、このことが「世俗の時代」の特徴だとされる。

 

1.2 第二章 今日の信仰の条件――多元主義のポリティクス

 本章では、テイラーが考える今日の信仰の在り方が明らかにされる。ここでの著者自身の問題背景は、テイラーの『世俗の時代』での語りを、「「未来」に世俗の時代の終わりを、またはキリスト教の勝利を見る護教論」(81)として読む解釈に対して批判し、別のテイラー読解を示すことにある。そこで著者が本章で示そうとするのは、一方で或る種の自然主義や科学主義を批判しながら、他方でそれらを強化しもする「内在的枠組」を今日における信仰の条件ともするテイラーの複雑な語りの実像である。

 「内在的枠組」とは、前章で語られた脱魔術化以降の「人々の一般的な経験様式」(83)である。つまり、脱魔術化以降、人々は主観(心)と客観(自然的世界)との厳密な区別において、心は外部からの干渉を受けずにむしろ外部から緩衝され、ただ「内面性」(83)によってのみ価値や意味が規定される。それとともに、外部世界は、「超自然的」であったり「超越的」であったりすることをやめ、ただ「自然的」で自己充足した「内在的」秩序として理解される。つまり人々の心からも外部世界からも超越的なものがなくなり、「内面的」または「内在的」にのみ経験されるようになるところの、その経験の枠組が「内在的枠組」と呼ばれる。

 自然主義や科学主義のように、あくまで内在性にとどまり超越を認めない立場もある。しかしテイラーによれば、そうした「内在性への閉鎖」は「内在的枠組」にとっての唯一のオプションではなく、数あるオプションのうちの一つにすぎない(84)。実際、第一章で見たように、「内在的枠組」のなかにある現代においても、「超越」を志向する可能性には開かれていた。

 テイラーにとって「内在的枠組」は選ぶことができるような一つのオプションではなく、信仰に先行しそれを規定する「信仰の条件」(86)である。他方でテイラーが批判するのは、「〔内在的〕枠組を閉鎖〔e. g. 「自然主義唯物論」(96)〕か開放〔e. g. 「原理主義的狂信」(96)〕のいずれかの方角へと偏向させる読解のヘゲモニー」、とくにそれらのうちでも支配的な「閉鎖の側に偏向した描像」である(86;〔〕内は引用者による補足)。

 ここで私が興味深いと感じたのは、「閉鎖の側に偏向した描像」に固執する「学術界」(86)への批判である。 こうした閉鎖的なアカデミックの態度の代表として挙げられるのが、『職業としての学問』を著したウェーバーである。ウェーバーは「合理化・主知化・脱魔術化を「時代の宿命」とする近代世界においてなお新しい宗教的信仰を画策する知識人層の動向のうちに「知性の犠牲」を見、それを「男らしさ」の欠如に結びつけた」(87, 注12)とされる。裏を返せば、ウェーバーは、脱魔術化された近代世界において、学問は「知性」的で「男らし」くあれ、と考えていたということになる。ここには知性を縮減して、しかもそれを「男らしさ」のうちに収奪する様が見てとれる。しばしば人文社会科学系学問が、自然科学を範とした学問の基準から、その妥当性を疑われることがある。これはもしかすると人文社会科学が有害な「男らしさ」にさらされているということなのかもしれない。ただしもちろん、人文社会科学のなかでも、例えば宗教学における「方法論的無神論」のように「男らしさ」によって、「宗教」の”におい”がする言説を抑圧することはある。実際、テイラーの『世俗の時代』を「護教論」として批判する者は、テイラーの語りがアカデミックの男らしい態度に反する点に異議を唱えている。

 話を戻すと、テイラーが閉鎖的な立場を批判するからといって、それはテイラーが人々を「キリスト教的な教義に対する信仰へと向かうよう呼びかけ」(94)ているわけではない。むしろテイラーは、閉鎖的であれ開放的であれ、内在的枠組をどちらか一方にのみ偏向する立場を批判することによって、「人が別の方向へと傾くことも可能になる、そのような選択自由へと〔内在的〕枠組みを開く」(94)のである。

 本記事ではこれ以上触れることができないが、本章ではさらに、のちの議論でもさらに論議されることになる、「受肉」と「脱肉」や、「カテゴリー的暴力」=「釘的な暴力」=「スケープゴート」の問題、「会話」とそれによる「重なり合う合意」など、重要な論点がテイラーのキリスト教またはカトリック理解において明らかにされる。

 

1.3 第三章 受肉と交わり――「回心」のゆくえ

 本章では『世俗の時代』のなかの、とりわけ「問題含み」な最終章「回心」が扱われる。「問題含み」とされるのは、本章ではテイラー自身のキリスト教信仰からくる語りが「全面的に開示」(121)されているからである。そうしたテイラーのテクストを扱う本章じたいも研究として独特である。まずタイトルからも想像されるように、本章は神学的、宗教学的な研究である。またテイラー的な「回心」の例として文学や芸術が参照されるため、本章は文学研究の側面ももつ。さらに本章は、テイラー独特の「時間」概念をめぐる歴史哲学的側面ももつ。そして本章で明らかにされる「テイラーの受肉と交わりの信仰」が「立場を異にする他者の会話に積極的に開かれようとする彼の哲学的・政治的多元主義の動機となってもいる」(179)かぎりで、本章は「哲学的・政治的多元主義」に通じる側面も持つ。

 まず本章の議論で興味をもったのは「コード・フェティシズム」とそれへのテイラーによる批判である。「コード・フェティシズム」とは、平たく言えば、何らかの道徳的目標に関する元々の動機よりも、その目標のための単一のコードそのものを崇拝し、それからの逸脱を厳しくとがめる、そういった態度のことである。そのためこの場合には、「一度コードが確立された後には、もっぱら個々の行為や選択に対するその適用が問題となり、道徳的目標に関するそもそもの深い動機は忘れ去られがちである」(134)。

 ここで若干疑問として浮かんだのは、テイラーは「コード・フェティシズム」に対してどのような態度をとるべきだと考えているのかということである。私の考えでは、「コード・フェティシズム」化してしまうことは不可避的であるようにおもう。例えば何かの目標のために日々練習や訓練を反復しつづけるとき、目標を忘れて反復することそのものに固執してしまうことは避けられない。かりにこのように「コード・フェティシズム」が不可避であるのだとすれば、「コード・フェティシズム」的な態度を徹底的に排除することは難しいようにおもわれる。私の考えでは重要なのは、「コード・フェティシズム」が不可避であるなかで何か問題が生じたときに、当初の目標や動機に立ち返ることができるのか、ということである。

 本書の議論に戻ると、単一のコードにのみ固執することは、問題状況の複雑さに対応できないし、様々な善の多元性も承認できない(135)。そしてそれは容易に「カテゴリー的暴力」(136)に通じる。カテゴリー的暴力とは、例えば〇〇人といったような他者のカテゴリー全体に対して向けられる暴力であり、その代表例がショアである。

 興味深いのは、この「コード・フェティシズム」批判もまた、テイラーによるキリスト教理解からくるということである。テイラー、そしてテイラーが学んだイリイチによると、キリスト教的「隣人愛」は、「誰か=ある身体(some body)に対して臓腑から沸き起こる応答」(137)である。つまりこの愛は、他人の身体が自分自身の身体に引き起こす感情であり、その意味で「肉的」(137)である。他方で、「コード・フェティシズム」においては、この愛が「制度化」され「形式的規範」となってしまうことによって、当初の身体的な要素が抜け落ちてしまう(137)。この事態は、「受肉」と反対の意味で、「脱肉」(139)と呼ばれる。こうした観点からテイラーは「今日のキリスト教の性規範、性的・感応的なものの倫理的抑圧を問題の多いものと考えている」(171)。反対に、テイラーが考える「教会」は、「はらわた感情」にもとづく隣人愛によって織りなされる「生きたネットワーク」また「アガペーのネットワーク」である(138)*8

 本章はこのようにテイラーの核心的な思想を、そのキリスト教理解から解きほぐしている。このようにキリスト教的背景からテイラーの思想を論じることで、テイラーの思想の妥当性が何か損なわれてしまうと感じる人もいるかもしれない。しかし私はこの解明の仕方には意義があると考える。その意義はいくつもあるだろうが、一つ上げるとすれば、先に述べた一部のキリスト教の抑圧的な性規範への批判についてである。テイラーによるその批判は、中立を自負する「どこでもないところからの眺め」からのものではなく、まさにキリスト教の内部からのものである。「どこでもないところからの眺め」から、キリスト教の抑圧的な性規範を批判するのではなく、キリスト教の内部からそれを批判することによって、より実感のこもった応答や「会話」が可能になるとおもわれる。

 以上で第三章を要約してきた。当然のことだが、実際の著書では、私が要約して肉をそがれて骨だけになった議論よりも、より充実した議論が展開されている。シャルル・ペギーやジェラード・マンリ・ホプキンスの詩についての細やかな読解などは、要約してしまうと重要なものが削ぎ落されてしまうようにおもわれたため、無粋な要約はしなかった。ぜひ実際のテクストを読んでほしい。

 

第II部以降の議論は別の記事につづく。

*1:以下、引用後の括弧内の数字は本書の頁数を指す

*2:チャールズ・テイラー『世俗の時代 上・下』(上巻: 千葉眞監訳, 木部尚志・山岡龍一・遠藤知子訳; 下巻: 千葉眞監訳, 石川涼子・梅川佳子・高田宏史・坪光生雄訳)名古屋大学出版会, 2020年.

*3:ホセ・カサノヴァ『近代世界の公共宗教』津城寛文訳, 筑摩書房, 2021年.

*4:テイラーとハーバーマスとの違いは、本書のなかで何度か検討される。そこでは例えば、「重なり合う合意」における「普遍性」(第五章2節)や、宗教の語りの「翻訳」の問題(第五章第2節, 第3節)、そして耳を傾けられるべき「宗教」として考えられているものの外延(第八章第2節)などについてが論点となる。

*5:この「スピリチュアリティ」という語で含意されているのは、「客観化され制度化された外的権威に対する主観的経験の先行と優越」(68)だとされる。

*6:テイラー的な意味での「宗教」にとって重要なのは「超越」という概念である。この「超越」概念の規定の仕方も興味深かったが、簡潔に言えば、「超越」の中核となる意味は「「人間の繁栄(human flourishing)」を超える善や目標に関する理解」(32)である。つまり「人間的繁栄を超える終極的目標を認め」ないヒューマニズムに対して、宗教はそうした繁栄を断念することもありうる「超越的な善の観念」を持つ(33)。

*7:ハーバーマスが対話相手と認めるのは「主要な世界宗教」だけだという点は第八章で言及される(bes. 354)

*8:ここでは、テイラー独特のカトリシズム(普遍主義」としての多元主義を同時代的なネットワークとしてイメージしているが、テイラーの多元主義には歴史的な時間軸も含まれる。ここにはシャルル・ペギー読解に由来するテイラー独自の歴史哲学あるいは「永遠」理解がある。テイラーは「あらゆる歴史の局面を――ただし、それらの多様性はそのままに――永遠性という全体のうちにかき集める、いわば歴史的な普遍主義(カトリシズム)」(158)をとる。この歴史的普遍主義においては、ある特定の時代のキリスト教信仰が黄金時代として基準にされ、それ以外の時代がその基準から断罪されたりすることはない。むしろその歴史的普遍主義は、それらの多様な信仰を、断罪することなく、その多様性そのままにつなぎあわせる。