【読書感想文】清水晶子『フェミニズムってなんですか?』

 

1 はじめに

 本書は2020年4月から2022年3月までにVOGUEのウェブページにて連載された記事をまとめたもの。2020年から2022年の二年間には、Covid-19の流行や、ジョージ・フロイドの死を受けたBlack Lives Matter運動、東京オリンピックパラリンピックの延期や開催、アメリカにおける「中絶」をめぐる問題等々、さまざまな出来事があった。本書は著者自身が言うように、「網羅的なもの」でも「何らかの基準で体系化されたもの」でもない(5)。しかし本書は、この二年間で起きたその時々の社会問題や事件などのタイムリーな話題を扱いながらも、何度も繰り返し議論されてきたしこれからも議論されていくような重要な問題を扱っている。「フェミニズム」がどれだけ多くの問題に取り組んできたか、どれだけ多くの変革をなしとげてきたか、どれだけ多くの立場がありうるのかなど、一部ネットでは「フェミ」と一言で片づけられてしまう「フェミニズム」がどれだけ多様なのかを垣間見ることができる。

 

2 本書の構成

 本書は、著者自身が言うように「スポーツからアート、性暴力から婚姻まで、さまざまなトピックを扱」っており、「それぞれ一応は独立してい」るため、どこから読んでもいい(5)。本書の節は大きく、著者自身の文章による節と、著者と対談者との対談からなる節の二つに分かれている。著者自身の文章では、最初の二つの節で「フェミニズム」とは何かという一般的な話と、フェミニズムの大まかな歴史が書かれている。また、つづく第三節は第二派フェミニズムの、そして第四節は第三派フェミニズムのより詳しい解説になっている。

 全16節のそれぞれのトピックはとても興味深いし、たんなる時事的な話題ではおさまりきらない根本的な問題を扱っている。それ以外の三つの対談もどれもおもしろかった。

 対談Iは写真家の長島有里枝さんとの対談。二人とも「自分の身体」に向きあうなかで戸惑いを苦悩をかんじつつ、それぞれの身体イメージがある意味では正反対の方向だという点がとても興味深かった。これは対談IIIでも問題になる、それぞれの女性の身体感覚や経験の違いの一例だろう。また、1990年代の長島さんのヌード作品についての「言説」に対して当時著者が違和感を感じ、その結果長島さんの作品を「私が観たいものではない」と距離をとってしまった経験、そしてその違和感を呼び起こした言説が「「権威」ある男性たち」(55)のものであり、そのような言説によって女性たちの連帯の契機が阻害された、という話は現代でもいくらでもありそうだとかんじた。

 対談IIは、スポーツとジェンダー研究が専門の井谷聡子さんとの対談。オリンピックをめぐる性差別や人種差別などを、オリンピックの歴史から暴きだしている。また、スポーツ競技一般の「ジェンダー化された基準」とその「公平性」についての議論も今後さらに注目されるものだとおもった。例えば「テストステロン値」を目安にジェンダーを区別する場合に、どの値を規定値にするかについては絶対的な基準はなく、そのために、ニュースにもなったように例えばセメンヤ選手が国際大会から排除されるなどの事態が起こっている(154)。科学的に数値化できるものだから厳密な基準だとおもわれるかもしれないが、テストステロン値そのものは「この値は女性です」とか「この値は男性です」とかを告げるものではない。どの値を規定値にするかは、それを設定する科学者などが生活する社会・文化的な背景がかかわってくる。さらに「体育」が「技能習得」と「自分の身体と向きあうための知識を習得」することの二つの役割を担っており、日本では圧倒的に前者に力点がおかれているという話もおもしろい(158)。前者の場合では、体育は「より速く、より高く、より強く」を目指すことになるが、後者の場合では何よりもまず「自分の身体がどのように動くのか、不調を整える(もしくは予防する)ためにどうコンディショニングするのか」(158)を学ぶ。後者の体育がもっと増えると、体育が好きな人も増えるかもしれない。

 対談IIIは作家の李琴峰さんとの対談。ここではトランス排除的な一部のフェミニズムの言説や「表現の自由」の問題、そしれそれらをめぐるSNSの現状などが話題になる。これらの現状を日ごろ目にしていると、それらを思い起こしてとても暗澹たる気持ちなるとともに、何か明快な解決策が提示されるわけではないため、本書の最後にして最も暗い気持ちになってしまった。とは言え、この対談では解決策ではないにしても、その現状を一部でも理解する言葉が得られた。

 

3 「フェミニズムとは何か」という問い

 著者自身「「フェミニズムってなんですか」という問いには、ひとつの定まった答えを出すことはできません」(4)と言い、さらに「この本は「フェミニズムとは何であるのか」に対してひとつの正解を提示することを目指してはいません」(5)と言う。それでもやはり「フェミニズムとは何か、何をするのか、何をするべきなのか、を問うべきではない、ということではないし、ましてや、フェミニズムが何をしてきたのかを知ることに意味がない、ということでもありません」(4)と著者は言う。一般に、Xについての厳密な定義ができないからといって、そのXについて語ることが不可能になるというわけではなく、「X」と称してきた、または称されてきたものどもが何をしてきたのかや、どのような傾向にあるのかを見ることで、Xに近づくことは可能だろう。

 著者自身は第一節で、「フェミニズムの三つの基本」を提示する(11 ff.)。

 (1)「改革の対象は社会/文化/制度であると認識すること」

 (2)「あえて空気を読もうとせずに、おかしいことをおかしいと思う(言う)こと」

 (3)「フェミニズムはあらゆる女性たちのものであると認めること」

まず、(1)については、性差別的な言動をする個人というよりも、その背景にある社会や制度に対して批判の矛先を向けるということ。差別一般についても言えるのかもしれないが、差別的な言動を目にしたときに、その言動を可能にしてしまっている制度や構造に批判を向けるという意識は忘れずにいたい。もちろん、例えば森喜朗のように、社会的に影響力のある個人に対しては、その個人の言動を批判することは重要だろう。

 (2)については、そのようにフェミニズムはそうした変革をめざすがゆえに、「違和感や憤り」(14)をぶつけるということ。”女性は話しが長いからわきまえろ”という意味にもとれる発言で問題になった森喜朗の件をおもいおこせば*1、(2)は「フェミニズム」の基本的な特徴になるだろう。

 (3)については、「フェミニズム」のなかでも「女性」ということでどこまで視点が行き届くかによってさまざまな立場があるようだ。例えば、第二派のフェミニズムが「家父長制や男性支配からの解放を目指す「理想的なフェミニスト」像を創造しようとし」た一方で、その際にイメージされていたのが「高等教育を受けた白人の中・上流階級」の女性であり、それ以外の女性が周縁化されてしまうということがあった(36)。これに対して、第三派フェミニズムは、第二派の限定的な「女性」像を乗り越えて、「人種や階級、セクシュアリティなど、さまざまに異なるバックグラウンドを持つ女性」(37)にまで裾野を広げた。また最近でもトランス女性を排除するような言説が一部のフェミニストから出ている。トランス排除的な一部のフェミニストに関する話題は、著者と李琴峰さんとの対談のなかでも議論されている。その際、「身体感覚や経験を共有する難しさ」から、この話題について議論されている(235 ff.)。「フェミニズム」は、さまざまな仕方で分断されてきた「女性」をつなぐ思想でありながらも、それぞれの〈女性〉が別々の身体感覚や経験をもつがゆえに、一枚岩にはなりきれない。「フェミニズム」には共感と違和感が共存している。

 

参考文献

清水晶子『フェミニズムってなんですか?』文藝春秋, 2022年.