【読書感想文③】坪光生雄『受肉と交わり:チャールズ・テイラーの宗教論』(勁草書房、2022年)

 

0 はじめに

 本記事では坪光生雄『受肉と交わり:チャールズ・テイラーの宗教論』(勁草書房、2022年)を扱う。前の二つの記事では『受肉と交わり』(以下、本書)の全体の概観と第I部の要約と感想(読書感想文①を参照)、そして第II部の要約と感想(読書感想文②を参照)を書いた。本記事はそのつづきで、この記事で最後になります。

 本記事では第III部の概要と「あとがき」で言及されていたテイラー(またはそのテクスト)と著者自身との距離について私が感じたことを書く。第III部は読書感想文①の各章の概要でも書いたように、テイラー自身の学問的方法と、本書で頻繁に登場する「世俗性」や「ポスト世俗」といった言葉が焦点になる。したがって第I部と第II部がテイラーのテクストを同じ目線で――とはいえそこには常に著者自身の繊細な反省が働いているのだが――論じるのに対して、第III部はテイラーのテクストをいわばメタに捉える視座を与える。

 

1 各章の概要と感想

 読書感想文①を参照。

 

1.1 第一章 「世俗化を語り直す――概念と歴史」

 読書感想文①を参照。

 

1.2 第二章 今日の信仰の条件――多元主義のポリティクス

 読書感想文①を参照。

 

1.3 第三章 受肉と交わり――「回心」のゆくえ

 読書感想文①を参照。

 

1.4 第四章 認識論と宗教史――多元的で頑強な実在論

 読書感想文②を参照。

 

1.5 第五章 世俗主義の再定義――普遍性と翻訳をめぐる対話

 読書感想文②を参照。

 

1.6 第六章 象りと共鳴――言語の神秘について

 読書感想文②を参照。

 

1.7 第七章 宗教学の倫理――アイロニーを超えて

 第七章は、テイラーの歴史主義的・系譜学的方法や解釈学的方法について明らかにされる。これまでの議論では、テイラーのラディカルな多元主義や、その多元性のなかで異なる立場の者同士が交わる可能性としての「会話」や「翻訳」というアイディアが提示されていた。しかし一読するだけでは、そうした多元主義のなかで「会話」や「翻訳」の可能性を主張するのは、何か「希望」のように見え、また「楽観的」におもえなくもない*1。本章ではこの点について、ガダマーの「地平の融合」という概念を借りながら、より具体的な道筋が示される。

 第1節では『世俗の時代』でテイラーが採用した歴史主義的・系譜学的方法について議論される。そのため本節は特に本書第I部で扱ったテイラーの議論の方法論が主題になる。ここでは、ハンス・ヨアス(※ヨナスではない)の「肯定的系譜学」やトレルチの歴史学論に依拠して、テイラーの独特の歴史的な語りの作法が明らかにされる。

 まずは一般的な「系譜学」とテイラーの歴史主義的・系譜学的方法との対比がなされる。著者によると、「「系譜学」という語は、事実上、その歴史調査に向かう各著述家の動機として、それぞれの対象に選ばれた概念や価値について彼らが抱く否定的ないし破壊的な意志を強く暗示する」(285-286)とされる。つまり系譜学者の歴史記述の動機は、まずある概念や価値観が所与のものとして普及しており、そうした状況に対する批判的な関心から、その概念や価値がどのように発生してきたのかを暴くなかで、現在の通念を揺さぶることである。それゆえ一般的な系譜学者は、現在の概念や価値を基礎づけるというポジティブな動機ではなく、むしろそれらを動揺させるというネガティブな動機に突き動かされている。『世俗の時代』で言えば、〈近代において自然科学が台頭し、それによって宗教が衰退する〉という「世俗化」の支配的な物語に対して、むしろキリスト教内部の「改革」のなかからその「世俗化」が生じてきたこと、そしてその結果として出てきた「排他的ヒューマニズム」には「アガペーに関するキリスト教的理解の歴史的な名残り」(51)があること、こうしたことを暴き出すことによって、通念とされる支配的な物語を動揺させている。

 しかし著者が指摘するように、「テイラーの物語は、そのような系譜学の否定的関心に最後まで貫かれているのではない」(287)。テイラーの意図は、「私たちの現在的な自己理解の改善に奉仕するため、より適切な歴史の物語を語り直す」(287)というよりポジティブなものである。ただしテイラーの語り方は「厳密に実証的な歴史学」(288)でもない。というのは、テイラーの語りは「過去を現在の生に結びつけ、そうすることで私たちの次なる一手につながる原罪的価値志向を明確化する」(289)という目的があるからである。こうした規範的な意図は実証的な歴史学には歓迎されない。

 したがってテイラーの語りは系譜学でも実証的な歴史学でもないことになる。テイラーの歴史的アプローチは「たんに系譜学と呼ぶにはポジティブにすぎ、またたんに歴史学と呼ぶには規範的な価値への志向が見えすぎる」(289)。そこで著者はテイラーの歴史学的アプローチを、ハンス・ヨアスに依拠しつつ「肯定的系譜学」(289)と呼ぶ。

 そして議論はヨアスからさらに、ヨアスがその範にするエルンスト・トレルチの歴史哲学に及ぶ。著者によると、「トレルチの目標は、純然たる事実の記述に自己限定する歴史学実証主義に満足することなく、また相対主義という悪しき歴史主義に陥らずに、むしろ歴史的・個性的なものの研究を通じて私たちの現在的な価値基準を獲得するための歴史哲学の道を示すことにあった」(290)とされる。トレルチからすれば、歴史学には避けがく歴史学者自身による現在の評価が紛れ込む。「歴史を語ることは、いつでもそれを語る者の現在的な営み」であり、「ある過去に関する意味や価値の解釈は、避けがたく歴史家自身の現在の実存による評価を含んでいる」(292)。そこでトレルチは歴史家自身の実存にこそ着目する。トレルチ的な「実存的歴史主義」の課題は「過去の研究を通じて現在および未来の価値基準を立ち上げる」(293)ことだとされる。これは先ほど述べた、『世俗の時代』において「世俗化の物語」を語り直すテイラーの意図と一致する。

 さらにこうした実存的歴史研究は、このように歴史を語る者自身の実存とその評価が深くかかわるがゆえに、それが扱うことのできる対象範囲は、「必然、歴史家その人が属する文化の限界内に制限される」(293)。第一章では、『世俗の時代』で語られる歴史は「北大西洋世界、つまり(元)ラテン・キリスト教界に生きる人々」(25)に限定されるということが言われていた。この限定を目にしたときに、適切な慎重さだと感じるとともに、ある種の「逃げ」のように感じなくもなかった。しかしこの第七章において、テイラーの語りがトレルチ的な実存的歴史研究のアプローチと重ね合わせられることで、その限定の意味が一層納得のいくものになる。

 さて第1節ではテイラー特有の歴史主義的アプローチが明らかにされたが、依然として相対主義の可能性は残る。歴史に関しては、それぞれの歴史家自身の実存が問題になる以上、異なる実存を持つ歴史家によって異なる語り方や価値評価がありうる。それだけでなく、第II部で語られた「多元的で頑強な実在論」や政治学におけるテイラー的な多元主義からも明らかなように、その他のトピックについてもテイラーは語りの多元性を主張していた。しかもその際、ハーバーマスの「世俗的な理性」のような一つの普遍的な共通の基準をテイラーは認めないため、とくに歴史や道徳などを含む「人間科学」に関してテイラー的な多元性のなかで、どのようにそれぞれの語りが交わることができるのか、そして交わることができたとしてたんなる相対主義に陥らずにそれぞれの語りのなかに何らかの優劣がありうる可能性はどのようにして担保されるのか、こういったことは問題として残る。この点に関しては第2節以降で「解釈学」を参照しながら説明される。

 著者によると「人間科学」は、対象の行動についてのたんなる客観的記述に終始することはできず、「行為者を当該の行為へと導いた本人の動機やその意味を理解することを目指して行う解釈作業」を含む、という点で、「解釈の学」でなければならない(300)。こうした「解釈」が入るということは、解釈者自身の主観的な要素(例えば、価値観や経験則など)も入るということである。しかしそれでも、その解釈について妥当性を問うことはできると言う。「人間科学が対象に与える新しい解釈の妥当性は、それによって当初の混乱が解消し、不明確だった対象の意味がいっそう整合的に了解可能になるという、いわばその効果の程度に等しい」(300)。

 整合性によって妥当性に優劣がつくという点は納得させられたが、少し考えてみると、妥当性は整合性とは別の要素もあるようにもおもわれる。私がおもいつくところで言えば、テクスト解釈系の人間科学では、対象となるテクストとの整合性はあまりないけれども、そのテクストを通してまったく新しいアイディアを提示した場合、その解釈は評価されるようにおもわれる*2。また、例えば詩について整合性が妥当性の根拠になりうるのだろうか。たしかに今問題になっているのは「人間科学」だが、第4節でさらに「会話」という人間科学の諸見解にとどまらない、その他さまざまなトピックに関する立場のあいだでなされる交わりについて議論が及んでいることからも、ここでの議論も「人間科学」にとどまらない射程を持っているはずである*3。詩は対象についての整合性というよりも、対象についての新しい見方を提示するもののようにおもわれる*4。こうした点がなお疑問として残った。

 本書の議論に戻る。うえで見たようにテイラーの解釈学はいわゆる「整合主義」(整合説)に近いように見える。すでに第四章で、多元的で頑強な実在論が主題になるなかで、それがローティの「整合主義」と異なるということが言われていた(読書感想文②の議論を参照)。本章第3節では、再度ローティとの対比が試みられる。

 たしかにテイラーは対象についての説明のなかに、客観的な記述だけでなく、「解釈」という項を差し込むことによって、「実在に関する強い形而上学的想定」(実在そのものについて語ることができるという想定)を放棄しているように見える(305)。形而上学を放棄するこうした態度はローティの言葉で「アイロニスト」(305)と呼ばれる。しかしテイラーはあくまで「多元的で頑強な実在論」を主張しているのだった。テイラーの実在論や解釈学においては、「たしかに自然主義的に介された「実在」や「事実」との対応としての真理概念は無効とされるが、語彙はなお語彙以外の何ものかにつなぎ留められている」(306)。

 ここで議論の参照軸としてさらにデイヴィドソンの「根源的解釈」が加わる。著者によるとデイヴィドソンの議論は、「翻訳不可能な「言語」など存在しない」(308)というものである。というのは、自分が使用する言語にまったく翻訳不可能な何か(そもそも言語でないかもしれない)について、それを「言語」だとか「何らかの真理を含んだ文の体系的相関」だとか認めることができないからである(308)。そのため異言語間で翻訳を行うときは、「善意の原則」にもとづく「根源的解釈」を行う。この原則は私たちに対して、「私たちが対象とする文に最大限の意味を与えようとする場合、まずは自分の言語に照らして、その文が真であることを受け入れる」(308)よう促すものである。つまりデイヴィドソン「すでに私たちの手に備わった言語の真理条件」(308)を元手に、他の言語を解釈するのであり、それで十分だと考えている。

 しかしこれに対してテイラーは、デイヴィドソンの「根源的解釈」は「自民族中心主義」(309)に陥ると批判する。「デイヴィドソンの理論が暗に頼りにしているのは、結局のところ「必要な用語はすでに自分の語彙のなかにある」という植民地時代からさほどかわり映えのしない宗主国的な自己信頼である」(310)とされる。他方でテイラー自身の「多元論」で言われていたことは、「言われるところの「何か」に対する応答として真であるような分節化の様式が複数ある」(314)ということだった(第四章での多元的な実在論の説明では、同じ〈金〉について、「自然科学的な原子番号79の物質」という語りと「神聖な物体」というエジプト人から見た語りの両方が真だということが言われていた)。

 一方で「言語相対主義者」は、言語の外側に参照軸となるような「実在」は存在しないとすることで異なる言語間の「共約不可能性」を説く。他方でデイヴィドソンは他者の言語を解釈する際の元手となる道具立ては自分の言語だとする。テイラーは、これらのいずれでもなく、一方で「永遠にまったく分かり合えない言語という想定が確かに不条理」としながら、他方で「他の言語に属するどんな文の意味も私の現在の言語におけるそれと変わりがない」とすることにも反対する(313)。そうではなく、テイラーの立場は、一方で「私たちの様々な言語はさしあたり多くの点で異なっている」ことを認めながらも、他方で「それらはいずれも真理を含むものでありえ、それゆえ究極的には相互に理解することができる」と考える(313)。そしてこうした多元性のなかで、それぞれが真でありうる立場のあいだで相互理解が成り立つ可能性を、テイラーはガダマーの「地平の融合」(312)に見出す。「私の地平は他者[...]の異なる地平、見たところ私の地平とは独立に自存すると考えられる別の地平との出会いによって変容を被り、拡張され、結果、その両者互いにとって共通の地平に私が身を置くようになるということ」、これが「地平の融合」としての「理解」だとされる(312)。ここではたしかに言語相対主義的な共約不可能性を越えた相互理解の可能性が開かれている。そして重要なことに、デイヴィドソンにおいては、自分の言語は他者の言語を理解する元手として固定化されていたが、テイラーにおいては自分の言語は他者の言語との出会いによって変容する可能性に開かれている。テイラーにとって「自己理解の変容を伴わない他者理解などない」(312)のである。

 テイラー的な多元的で頑強な実在論の要は、同じ内容(実在)そのものについて複数の正しい図式(例えば言語表現)がありうるという図式と内容の区別である。「実在それ自体については頑強に擁護しながらも、それを私たちにとってのものとして開示する正しい言語の形式は多数ありうるという、いわばマターとマナーの一定の区別に関する主張が、彼〔テイラー〕の前提をなしている」(332)。これは「図式〔マナー〕と内容〔マター〕の区別」をテイラーが堅持することでもある(332)。ただし通常、図式と内容の区別は、図式(例えば言語表現)は内容(実在)それ自体については表現できず、つねに内容を捉えそこなってしまうというネガティブな面を含みうる。しかしテイラーの場合には、いずれの図式も正しく内容を捉えている可能性をもつというポジティブな理解をしているところに特徴があるだろう。もちろんそのうえで、「地平の融合」によってそれぞれの図式(言語表現)のあいだに理解可能性が担保され、そして「整合性」の度合いによってそれぞれの解釈の妥当性が吟味される。

 ここで議論は以前の章で語られていた「会話」に接続されるが、ここで疑問が生じた。著者によると、宗教学者としての解釈者は「多様な宗教による個別の真理請求がすべて何らかの実在への応答として真であるかもしれないという可能性に賭けつつ、互いに論点先取を慎みながら行う「会話」へと自己を投げ込む」(334)とされる。しかし、ここでは宗教学者が何らかの宗教行為者を対象にするという事態が想定されている(実際、本章はテイラー独自の学問的方法論について語られる賞である)。そうすると、これは宗教学者が対象となる宗教行為者を一方的に解釈する場面であって、相互的な会話が成り立つような場面ではなさそうである。もちろん宗教学者はその解釈にあたって対象の宗教行為者の語彙に耳を傾けるだろう。しかし宗教学者自身が自分の語彙を対象者に伝え、対象者自身が宗教学者(対象者にとっての対象者)に同様の解釈をするといったことはないだろう。私は、「会話」ということである共通のトピックについて、互いに異なる立場のあいだに生じる営みを想定していた。それゆえ他者の言葉を理解することで、互いが自己理解の変容をともなうことになろう(「自己理解の変容を伴わない他者理解などない」)。しかし宗教学者と宗教当事者とのあいだには、宗教学者自身の自己変容は成り立ちそうだが、宗教当事者自身が宗教学者によって自己変容をともなうことは――少しはあるかもしれないが――あまり考えられない。こうした場面でも「会話」と呼ぶにふさわしいのだろうか、ということが疑問として浮かんだ。

 本章は、これ自体でも十分読むに値するが、本書のこれまでの議論をふまえると、それらの議論をより一層深めたり、それらに俯瞰した視座を与えたりするという点で、とてもおもしろく読めた。

 

1.8 第八章 「ポスト世俗」の諸相

 本章では、本書や本書が集中的に扱った『世俗の時代』でも頻出する「世俗」という言葉、そしてとりわけハーバマス以降に活気づいた「ポスト世俗」という言葉、これらについて検討される。すでに読書感想文①で述べたように、自然科学の発展やそれにともなう「近代化」によって、それまで支配的だった宗教の信ぴょう性が崩れ、宗教が衰退するという支配的な世俗化の物語に対して、カサノヴァがポーランドアメリカなどの実例を紹介しながら、宗教がいまなお政治の領域でも大きな力をもっていることを明かした。そしてハーバーマスはそうした状況を踏まえて、宗教が衰退したとする「世俗」のフェーズから、現在がむしろ宗教が公共圏で力を発揮しているフェーズにあると理解し、そうした状況を「ポスト世俗」という標語で表現した。

 著者によると、テイラーもこうした「ポスト世俗」の哲学者・思想家と見なされているようだが(337)、しかしテイラー自身が著書のタイトルに選んだのは、『世俗の時代』であり、そこでの問いは「私たちが世俗の時代に生きているとはどういうことか」(338)というものである。こうしてみるとテイラーはあくまで「世俗」という言葉にこだわっているようにも見える。したがってテイラーを安易に「ポスト世俗」論者に加えるのではなく、テイラー自身による「世俗」や「世俗性」といった概念、また「ポスト世俗」という概念一般について検討することで、たんなる標語以上の”繊細な”議論をすることが本章の目的だと言えるだろう。

 本章ではこれらの概念について最終的に一義的な定義が与えられるわけではない。むしろそれらの概念についてのさまざまな意味が提示され、初学者は圧倒させられるかもしれない(私はパンクしそうになった!)。しかし本章の意図はそもそも、「この言葉〔ここではとくに「ポスト世俗」を指す〕の解釈に伴う複雑性をどうにかして縮減するというのではなく、むしろその尽くしがたい多義性に慣れ親しむことで、自身に備わる言葉への応答可能性――少なくとも議論を経る以前の状態よりは――増大させる」(368)というものである。「この議論の後ではもう「ポスト世俗」という言葉を、また同時に「世俗」や「宗教」という言葉をも、たんなる道具として気楽に使用する気にはならない」(368)。第一章で見たように、「世俗の時代」というものが、各人がどのオプションを選ぼうとも、もはやそのオプションを唯一のものとしてナイーブに確信することはできず、つねにその確信を動揺させられる時代の名だとすれば、何らかの一義的な定義を手にしたという確信に対してつねに「反省的であることを自らに課し、そのことをたえず自主的に点検し続ける」(368)ことこそ、「世俗の時代」の思考様式であろう。こうして著者は、「世俗」や「ポスト世俗」といった概念を詳細に検討することで、まさにテイラー的な「世俗の時代」の思考的な態度を示したのである。

 本章での詳細な概念分析は実際に読んだ方がいいだろう。ここでは本章のなかで本筋の議論とは別に興味深いと感じた点に言及したい。それはハーバーマスとテイラーの違いである。一方でハーバーマスが「ポスト世俗」という標語のもとで、宗教が公共圏で発言力を持つと主張する場合、そこで考えられているのは「主要な世界宗教」(354)である。つまりハーバーマスは「ポスト世俗」においてもあくまで「世俗的理性」を基準に考えており、その「世俗的理性」の対話相手となれるのは、「教義を精緻化していく過程で高いレベルの内的合理化を達成した諸伝統〔の実定宗教〕」(355)のみなのである。他方で、テイラーは第一章でも触れたように、伝統的な実定宗教だけでなく非伝統的なスピリチュアリティも重視する(359)。テイラーにとって「世俗の時代」ではあらゆるオプションがその確信を動揺させられる以上、ハーバーマスの言う「世俗的理性」も、また伝統的な実定宗教も、スピリチュアリティに対する特権性は持たないのである。

 

2 著者とテイラーとの距離について

 最後に「あとがき」に書かれていた著者とテイラーとの距離について、私なりに思ったことを考えて、この長い読書感想文を終えたい。

 本書を読んでいると、著者自身の語りがテイラー自身の語りと見分けがつかないかのような印象をもつことがある。このことについては著者自身も何度か指摘を受けてきたようで自覚的である(380)。私自身、以前ある哲学者を研究していたときにそのような指摘を受けたことがあり、地の文に埋め込んでいた引用をブロック引用に変えたり、研究対象の名前を明記して「〇〇は…と言う」などと書き方を意識した。著者もおそらくそうした工夫をしてきたのだろうと推測される。しかし指摘を受けてもなお著者には、テイラーに肉薄する語りの印象が残されている。それについて著者は「距離を置くことがいつでも対象のよりよい理解につながるとは限らない」(380)と弁明する。

 私自身、著者のこの意見に賛同する。テクスト解釈において〈対象と距離を置くこと〉は重視されるのがつねであり、私もこれはおおむね正しい態度だと理解している。ところで一般に研究者が対象にするテクストは、必ずしも一般にウケのいいものではない。例えば、古いテクストであれば、いわゆる〈現代的な常識〉なるものからすれば、受け入れがたい内容(神や自然科学にかかわる主張など)もある。そうした場合に、〈対象と距離を置くこと〉は容易に〈対象を”現代的な常識”から批判してみせること〉――嫌な言い方を敢えてするならば〈”常識人”ぶること〉――になりかねない*5。しかし〈現代的な常識〉からすれば受け入れがたいことにこそ、対象自身の独自性や意義があることもある。本書で言えば、例えばチャールズ・テイラーの宗教的な背景である。チャールズ・テイラーを〈現代的な常識〉から理解しようとするならば、「方法論的無神論」の立場をとりその宗教性を無視あるいは非難してみせて、テイラーの政治思想(その他、認識論や言語論などでもよい)のみを取り出そうとするだろう。しかし本書は、むしろテイラーの宗教性にこそ着目する。その点だけで、ある読者にとっては〈対象との適切な距離がとれていない〉と感じるかもしれない。

 しかし私の読んだ感触から言えば、著者には書き方について、引用に語らせるのではなく、もう少しブロック引用を使ってそのあとに著者自身の解釈を付することを多めにするといった工夫はあってよかったかもしれないとおもう一方で、著者が「テイラーを無批判に読んでいる」などとはおもわなかった。そもそも本書を読むかぎりではテイラー自身の語りが、積極的な主張と自己批判とをつねに同居させたようなものである。そうしたテイラーの思想に肉薄する著者の語りも、テイラーへの賛同と批判とをつねに同居させた慎重な内容になっている。感覚的な言い方が許されるならば、著者の文章には、テイラーのテクストを読むたんなる高揚というよりも、「世俗の時代」においてこのテクストを誠実に読み解こうとする苦悩のほうが感じられた。

 実際、著者はテイラーのテクストに対して明確に距離をとっている。その証拠に、著者は第III部でテイラーの「学問的方法」についてメタ的に検討をくわえている。とくに第III部の前書きにあたる5頁におよぶ文章からは、その検討それ自体が含む「アポリア」(281)に自覚的になりながらも、なおテイラーのテクストを「外に開」(282)こうとする著者の誠実な様を読みとることができる。私は、私自身はもちろんのこと、いわゆる〈常識的〉な書き手の文章からでも、著者以上に反省を働かせている書き手を見たことはない。その点からしても、著者とテイラーとの距離感が適切であるかどうかは分からない――そもそも私には適切さを判断できない――が、著者は少なくとも自分の確信がつねに揺さぶられる時代にあるということに自覚的にテイラーのテクストを読み解いているようにおもわれる。私自身は本書、そして本書を通してテイラーのテクストを読むことで、自己理解の変容をせざるを得なかった。こうしたテクストは控えめに言っても優れたテクストだと言ってよいだろう。

*1:第五章では、「共通性」ではなく「差異」を強調するバトラーの目から見て、「テイラーが交わりに寄せる希望は、バトラーにとっては楽観的にすぎ、現実離れしたものかもしれない」(230)と著者は言う。

*2:ただしこの場合には、テクストそのものとの整合性は少ないかもしれないが、論者が論じたいトピックや対象を新しいアイディアによってより整合的に説明できる、という点での整合性が評価されていると理解することもできる。例えばカントのテクストから動物倫理の議論を文字通りに取り出すことはできないが、カントの義務論あるいは動物倫理の議論をより整合的に説明するために、カントのテクストに依拠して新しい義務論的な動物倫理を打ち立てるということもありえる。

*3:もし整合性によって妥当性が決まるという主張が「人間科学」あるいはそれを研究する学者の言説にのみ適用されるのだとすれば、その他の宗教家の語りや詩人の語りの妥当性はどのように決まるのだろうか。

*4:著者の言葉では「詩人は新しい表現形式を開発することで、同時に新しい啓示の対象となる何かを始めて顕現させるないしは新たに創造する」(166)と言われる。ここで語られる詩人の特徴には対象の理解についての整合性を増すといったことは含まれていないようにおもわれる。

*5:〈”常識人”ぶること〉は、本書での議論からすれば、ウェーバー的な〈男らしさ〉(87)に通じるかもしれない。