【読書感想文】斎藤幸平『NHK 100分de名著 ヘーゲル 精神現象学:分断を乗り越える思想』(NHK出版, 2023年)

 

0 はじめに

 斎藤幸平『NHK 100分de名著 ヘーゲル 精神現象学:分断を乗り越える思想』(以下、「本書」)は、タイトルから分かるとおり、Eテレの人気番組「100分de名著」の参考テキストとして書かれたものです。今月5月がちょうどヘーゲルの『精神現象学』を扱う月でした*1。私は本書を読んだうえで、全4回の放送も見ました。どちらも非常に面白くかんじました。ヘーゲルを知らず、また哲学史に関する専門教育を受けていない人にも、十分おすすめできる一冊です。

 本書の頁数は約130頁。しかも注や図解のために、各頁の下3分の1ほどには余白があります。難解な古典についての、こうした一般向けの本の常として、ある程度以上知っている人からすれば、説明や言及が不十分だとかんじられる、ということはあります。しかしそうしたことはその著者である研究者は重々承知のうえです。それでも難解な古典を、紙幅の制約のなか、一般向けにかみ砕く本を書けるということ、そして一般の読者にその思想が何か生活に活かせるとおもわせられるということは、尊敬すべきことです。私はこのことを前提に本記事を書いています。

 

1 『精神現象学』の異様さ

 まず本節で、本書が扱う『精神現象学』がどれだけ異様なのかについて話しておきます。『精神現象学』は哲学史のなかでも、またヘーゲルの発展史を見ても奇書と言っていいのではないでしょうか。

 まず哲学書としては内容が多岐に渡りすぎています。「いま・ここ」や「これ」を「真理」だと考える感覚的確信から始まり、対象を「実体-属性(物とその性質の)関係」として捉える知覚を経て、さらに法則を捉える悟性、そして自分の外の対象から自分自身を対象にする自己意識など、「意識」という主人公がさまざまな意識形態を経めぐる過程が描かれています。そうかと思えば、ストア派懐疑主義のような哲学史的な要素も出てきます。そして精神章というところでは、古代ギリシャから古代ローマフランス革命、現代(当時19世紀の)ドイツにまでいたる歴史が描かれます。このように『精神現象学』はそれ自体で内容に富んだ書物でありながら、他方でそれには執筆当時のヘーゲルの体系構想において、体系への「導入」という位置づけもありました。とにかく一つの哲学書としては食いしん坊でも胃もたれするくらい盛沢山なのです。

 またヘーゲルの発展史的にも『精神現象学』の登場は異様です*2。例えばいわゆる体系期に書かれた『大論理学』や『エンツュクロペディ』(『論理学』『自然哲学』『精神哲学』で構成される)などについては、ヘーゲルが『精神現象学』を書く以前の時期にも同様の事柄について草稿を書いています。そのため、ヘーゲルの発展史的には連続性は容易に推測できます。これに対して、『精神現象学』は部分的にはそれ以前の活動からの連続性があるところもありますが、それには回収できないトピックが多すぎるのです。

 以上のように、『精神現象学』は哲学史的にもヘーゲルの発展史的にも異様です。このような書物を一般向けの本で解説することは非常に難題です。本書は、盛沢山な『精神現象学』を「承認」というトピックにしぼって解説することで、一つの筋道を通し、初学者にも分かりやすくなっています。ただし反対に言えば、本書だけで『精神現象学』の全体像が分かるということはありません。それでも「承認」にしぼったことは次のような利点があります。まず「承認」あるいは「承認論」は、ヘーゲル哲学のなかでも、現代で盛んに議論されているトピックの一つで、また内容としても一般の読者になじみやすいもので例示できるからです。また「承認」は、『精神現象学』のなかにある様々なトピックのうちの一つとは言え、ヘーゲルにとっても最重要トピックの一つには違いありません。さらに著者自身も、ヘーゲルの承認論について専門的な論文を書いています*3。このような理由から、本書の構成はとてもうまいとかんじました。

 

2 本書の構成

 本節では本書の構成を説明します。本書の構成は放送に合わせて第1回から第4回までの全4章構成になっています(「はじめに」を加えると全5章)。前節で述べたように、本書は「承認」というトピックにしぼって『精神現象学』を解説しています。以下では、各回を概観しています。本節の最後に『精神現象学』の目次と、本書の各回がどこに対応するのかについての画像も添付しているので併せてご覧ください。

 第1回ヘーゲルについての歴史的な話や、当時の時代背景とともにヘーゲルが考えようとしたことが説明されます。もちろんここで著者が取り出す「ヘーゲルが考えようとしたこと」(16頁)は、ヘーゲルが考えようとしたことのうちの一つなのですが、ここで本書がどのような問題を軸にしていくのかが示されます。

 また『精神現象学』序文(Vorrede)の有名な真理論や、序論(Einleitung)の「経験」や「弁証法」概念について説明されます。さらに意識章の感覚的確信、知覚、悟性がまとめて説明されたあとに、本書の軸となる「承認」の概念、そして主奴の弁証法が解説されます。

 ここでは少ない紙幅のなかで、ヘーゲルにとって真理が過程であることや、新たな知を獲得するにあたって自己否定が必要であること、といった『精神現象学』において重要な考え方が手際よく解説されます。これら二つは本書の最後の結論も示唆しています。一方で確定的な真理はなく真理は過程であって、都度都度更新されていくものだという考え方は、「相互承認」によって万事解決というわけではなく、課題は課題として残り続ける、という最後の結論に通じています。他方で、自己否定についてはその「相互承認」が成立するために、対立しあう意識がしなければならないことでもあります。

 第2回は、いっきに精神章まで飛んで「B じぶんにとって疎遠となった精神 教養」が対象になります。ここでは18世紀フランスのやんごとない人びとのサロン文化などが話題になります。本書ではそれを現代の「論破」ブームと結びつけて解説しています。私自身、昔このB節を読んだときに、あまり理解できずにいたのですが、今回こういう話だったのかとようやく腑に落ちました(まだ原文を確認していないので実際に読み直したら違う感想を持つかもしれませんが)。「論破」をこととするおしゃべりがどれだけ不毛なのかを、『精神現象学』から学べるとはおもっていませんでした。

 第3回は、同じ精神章B節の「啓蒙」と「信仰」が対象になります。ここでは「陰謀論」やそれに対する「エビデンス主義」が例に出されます。もしかすると読者は、著者がやり玉に挙げる「自然主義」や「科学主義」に対して、疑問、反論を抱くかもしれません。ただ私として興味深いとおもったことは「エビデンスがあれば、対話のための信頼関係が構築されるなんてことはなく、信頼関係があって初めてエビデンスが意味をもつ」(93頁)という主張です。そうあるべきかどうかはさておき、事実としてそのようになっているという感触を私は持ちます。そしてそれゆえに、「承認」関係はなかなか難しいとかんじます。*4

 第4回は、「C じぶん自身を確信した精神 道徳性」(いわゆる良心節)が主題になります。ここでは自分の良心に従って義務を行う「行為する良心」と、その行為の一面性(悪しき面)を指摘する「批評する良心」との対立が描かれます。本書では、何らかの支援活動を行っているであろうNGOと、それに対してそのNGOは「私腹を肥やしている」と批判する人との対立が例として挙げられます*5。この対立が和解にいたるところでようやく「相互承認」にいたることになります。この相互承認の例として、本書では『進撃の巨人』のあるエピソードが挙げられます。『進撃の巨人』は私も好きでアニメを観ていたのですが、よい例だとおもいます。

 以上が本章の構成と概要です。以下に『精神現象学』の目次と各回の対応の画像を添付します。

 

『精神現象学』の目次と『100分de名著 ヘーゲル 精神現象学』の対応箇所

精神現象学』の目次と『100分de名著 ヘーゲル 精神現象学』の対応箇所

 

3 本書でよいと感じた点と不満点

 最後に本書で私がよいと感じた点と、不満におもった些細な点について書いていきます。

 

3.1 よいと感じた点

 本書では、解説の際の話題や例が、まさに今を生きる多くの人にとって馴染みのあるものばかりです。前節の概要でも触れたように、例えば、「分断」「SNS」「論破」「環境問題」「陰謀論」、あるいは「ケア」「フェミニズム」「LGBTQ」『進撃の巨人』など、現代人にとって馴染み深い話題や例がたくさん登場します。また、そうした話題を扱うなかで著者自身の思想的な立場も多分に出ていて、(その思想の良し悪しは受け手によって様々でしょうが)たんなる解説にはとどまらないものになっているところもよいところです。

 前節で具体例についてはいくつか触れていますが、そのなかで触れていないことについて、ここで紹介します。

 第1回で、いわゆる「主奴の弁証法」について解説する際に本書では「ケア」が例に挙げられています。まず主奴の弁証法とは、奴隷をこき使う自立的な意識としての主人と、主人に従属する非自立的な意識としての奴隷が、その自立性と非自立性に関して反転してしまう、という事態のことです。つまり、主人は実のところ奴隷の労働に依存しており、奴隷は自ら労働することで自立的に生きる術を手にしている、という仕方で、主人と奴隷の自立性と非自立性が反転してしまう、という事態です。

 本書ではこの自立性と非自立性とが反転する事態を、「ケア」の問題に引きつけて解説しています。例えば、婚姻関係にある女性と男性について、女性が家事をし、男性が会社で労働をする、という社会モデルにおいては、男性は自立的で、女性はその男性の収入に依存している、と考えられがちです。しかし最近そうした考えが改まってきているように、自立的だとおもわれていた男性は、実のところ女性の「ケア労働」に依存しています。本書は、ヘーゲルの主奴の弁証法を、婚姻関係にある女性と男性における旧来の自立性の理解を反転させる仕方に結びつけています。

 また、この文脈で岡崎佑香さんというすぐれた研究者も紹介されています(40頁)。岡崎佑香さんは主に、ヘーゲル(またカントやフィヒテ)についてフェミニズムや性などの観点から研究しています。こうした研究は比較的新しいものです。こうした研究が紹介されることでヘーゲルを読む際の新しい視点を読者は受けとることができるのではないでしょうか。

 

3.2 不満点

 最後に不満点を一点だけあげます。誤解なきようにもう一度申し上げておくと、ここで私が指摘する不満点は、当然著者自身も理解したうえでのことだということを断っておきます。

 ヘーゲルの入門的な説明では、「弁証法」の解説をすることが常のようになっています。ところで私自身は「弁証法」(より正確に言えばその原動力となる「矛盾」)は厳密に使わなければ、きわめて俗的な解釈や誤った解釈になってしまうと考えています。そのため、こう考えると専門外の人でも使えます!といった入門的な説明を見ると、弁証法はそんなに使い勝手はよくないとおもってしまいます。

 本書では「弁証法」について次のように説明されています。ある二つの矛盾する主張があり、どちらも一面的である場合、「弁証法とは、そのような「どちらも一面的で不完全」な状況において、両者を統合する、新たな知に至るための方法」(31)です。

 ところで私が入門的な説明のなかで最もしっくりきた解説は、大河内先生の「ヘーゲル入門」というYouTube動画での説明です。そこでは弁証法は「あるものが、自分を徹底していくと、自分とは反対のものに反転すること。その反転の運動。」というように説明されています*6。この「弁証法」の説明は最もミニマムな意味です*7。もちろんそのあとに、反転しあうもの同士が統合されて、より高次の段階にいたる、という展開はあるため、本書の説明は必ずしも誤りではありません。しかし対立しあう規定が自分を否定して他方へ反転するという運動なしに、「弁証法」と言われても、なぜそれが「弁証法」という名に値するのかが分かりません。

 ここからは私の解釈です。ヘーゲルの「弁証法」が、プラトンの「ディアレクティケー」やカント『純粋理性批判』の「弁証論(Dialektik)」といったものと同じ語ないし語源を共有するのは、「他方への反転」という点で共通しているからだと私は理解しています。プラトンのディアレクティケーは、ソクラテスが、知者だと自称する者との問答のなかで、その者が実は無知であったこと、つまり知者が無知者に反転しまうことを暴きます。カントの弁証論は、例えばアンチノミーに代表されるように、「世界には時間的始まりや空間的な限界がある」という主張と「世界には時間的始まりや空間的な限界はない」という主張が、つきつめると他方に反転してしまうことを呈示します。こうした連続性のなかで、ヘーゲルも「弁証法」という概念を用いているわけで、もしそのミニマムな意味がなければ、なぜその名前であるのかが不明なままです。

 本書の「弁証法」の説明すなわち〈矛盾しあう主張を統合して新たな知に至るための方法〉は、たんに「対話」や「熟議」などと呼んでもいいはずです。それがなぜ「弁証法」と呼ばれるのか、「他方への反転」という意味を削ぎ落してしまうと分からなくなります。しかし「弁証法」に「他方への反転」という意味を与えてしまうと、途端に使い勝手が悪くなります。というのは、何が反転するのか、どのようにして反転するのかを考えると応用しづらくなるうえに、さらに新たな段階に至る、という展開までを含めて考えなければならなくなると、汎用性がなくなるからです。この意味で私は一般の人にとっては「弁証法」は使い勝手がよくないと考えています。そして私はわざわざ「弁証法」の話をしなくても、ヘーゲルのよさは伝わると考えています。実際、本書から弁証法の話を

*1:番組サイトへのリンク。なお過去回も有料ですが、NHKオンデマンドで見ることができます(リンク)。

*2:このことはヘーゲル研究者の大河内泰樹先生が『精神現象学』を授業するときによく話していました。

*3:いま手もとにないため間違っているかもしれませんが、著者は「貧者は承認されうるのか?――資本主義における承認の野蛮化をめぐって」(『思想』No. 1137, 岩波書店, 2019年)という論文で、本書のクライマックスである「良心」章の承認論を扱っています。また現代の承認論の第一人者であるアクセル・ホネットの議論も踏まえて、それに対する批判も行っています。

*4:ところでこの「信頼」概念は第4回で主題になる良心章でも重要になります。第4回で「相互承認」が成立するためには、行為する良心と批評する良心の各々が自己否定をして、自分の非を告白し、相手を赦すということが必要なプロセスになります。本書ではさらりとしか触れられていませんが、『精神現象学』ではこの過程において、行為する良心は自分の非を告白したものの、それに対して、批評する良心の側が相手の非だけを認め、自分の非は認めない、という事態(「頑なな心情」(116頁))にいたる、という場面があります。本書では「これ以外の展開もあり得ます」(117頁)とあっけなく切り返して、理想的な相互承認への道すじを辿ってしまいます。しかし私自身、良心章を初めて読んだ時からの謎として、必然的に相互承認にいたる道のりが必然的であるならば(ヘーゲルはそのように書いているように見える)、頑なな心情の問題はどのように解決されるのか、ということを考えていました。この点について、岡崎龍さんというすぐれた研究者が、「ヘーゲル精神現象学』の良心論の特異性――良心の対立の内実と宗教への移行を巡って」(『ヘーゲル哲学研究』第27号, 2021年)という論文で、説得的な解釈を示しています。詳細は割愛しますが、岡崎龍さんが着目するのが、この第3回でもキーワードとして出てきた「信頼」という概念です。私が理解するところでは次のようにまとめられます。相手の告白を引き受けるには相手の言葉を信頼できることが必要ですが、結局のところ良心章の対立のように個々人間の対立において、相手の告白が本物であるかを信頼できるかどうかは未確定であり、それゆえに頑なな心のような事態にもいたりうる、というのがこの論文での指摘です。それではこの限界はどうなるのか、というと岡崎論文によよれば、精神章の次の宗教章でその克服が課題となるようです。本書では精神章の最後の良心章で終わっていますが、添付した画像にある目次を見ても分かるとおり、精神章から最後の絶対知章までのあいだに、宗教章があります。この宗教章は多くの場合、無視されがちですが、岡崎龍さんはこの宗教章の役割に着目しています。

*5:この例は、タイミングもありTwitterで話題になっていたある騒動を想起させます。ただ私の理解では本書でも説明されているように、ヘーゲルの言う良心は「道徳的な天才」(108頁)です。もし私が想起している騒動が例なのであれば、少なくともその騒動で批判する側は「道徳的な天才」とはおもえません。どちらかというと、「論破」や「陰謀論」の段階にある意識におもえます。そうだとすれば例としては適切ではないかもしれません。とは言え、私も一般に良心論を理解するときは、著者が例にしているものと同様の事例を思い浮かべます

*6:動画リンク

*7:ヘーゲルは体系期の『エンツュクロペディ』(ここでは第三版)のなかの「論理学」(通称『小論理学』)の「予備概念」(本論に入る前の前置きのような箇所)で、「論理的なもの」の三つの側面のうちの二つ目の側面を「弁証法的あるいは否定的-理性的側面」として特徴づけています(79節)。この「弁証法的」側面は、そのような〔固定的な〕諸規定が自身で自己を止揚すること、またそれらの規定が自分の反対のものへと移行すること」(81節)だとされます。固定的な規定とは、例えば主人が自立的で奴隷は非自立的であってその反対ではないという常識的(悟性的)な考え方のことです。そして弁証法とは、そうした規定がその反対のものへと移行すること、すなわち反転することだとされています。