【読書感想文】斎藤幸平『NHK 100分de名著 ヘーゲル 精神現象学:分断を乗り越える思想』(NHK出版, 2023年)

 

0 はじめに

 斎藤幸平『NHK 100分de名著 ヘーゲル 精神現象学:分断を乗り越える思想』(以下、「本書」)は、タイトルから分かるとおり、Eテレの人気番組「100分de名著」の参考テキストとして書かれたものです。今月5月がちょうどヘーゲルの『精神現象学』を扱う月でした*1。私は本書を読んだうえで、全4回の放送も見ました。どちらも非常に面白くかんじました。ヘーゲルを知らず、また哲学史に関する専門教育を受けていない人にも、十分おすすめできる一冊です。

 本書の頁数は約130頁。しかも注や図解のために、各頁の下3分の1ほどには余白があります。難解な古典についての、こうした一般向けの本の常として、ある程度以上知っている人からすれば、説明や言及が不十分だとかんじられる、ということはあります。しかしそうしたことはその著者である研究者は重々承知のうえです。それでも難解な古典を、紙幅の制約のなか、一般向けにかみ砕く本を書けるということ、そして一般の読者にその思想が何か生活に活かせるとおもわせられるということは、尊敬すべきことです。私はこのことを前提に本記事を書いています。

 

1 『精神現象学』の異様さ

 まず本節で、本書が扱う『精神現象学』がどれだけ異様なのかについて話しておきます。『精神現象学』は哲学史のなかでも、またヘーゲルの発展史を見ても奇書と言っていいのではないでしょうか。

 まず哲学書としては内容が多岐に渡りすぎています。「いま・ここ」や「これ」を「真理」だと考える感覚的確信から始まり、対象を「実体-属性(物とその性質の)関係」として捉える知覚を経て、さらに法則を捉える悟性、そして自分の外の対象から自分自身を対象にする自己意識など、「意識」という主人公がさまざまな意識形態を経めぐる過程が描かれています。そうかと思えば、ストア派懐疑主義のような哲学史的な要素も出てきます。そして精神章というところでは、古代ギリシャから古代ローマフランス革命、現代(当時19世紀の)ドイツにまでいたる歴史が描かれます。このように『精神現象学』はそれ自体で内容に富んだ書物でありながら、他方でそれには執筆当時のヘーゲルの体系構想において、体系への「導入」という位置づけもありました。とにかく一つの哲学書としては食いしん坊でも胃もたれするくらい盛沢山なのです。

 またヘーゲルの発展史的にも『精神現象学』の登場は異様です*2。例えばいわゆる体系期に書かれた『大論理学』や『エンツュクロペディ』(『論理学』『自然哲学』『精神哲学』で構成される)などについては、ヘーゲルが『精神現象学』を書く以前の時期にも同様の事柄について草稿を書いています。そのため、ヘーゲルの発展史的には連続性は容易に推測できます。これに対して、『精神現象学』は部分的にはそれ以前の活動からの連続性があるところもありますが、それには回収できないトピックが多すぎるのです。

 以上のように、『精神現象学』は哲学史的にもヘーゲルの発展史的にも異様です。このような書物を一般向けの本で解説することは非常に難題です。本書は、盛沢山な『精神現象学』を「承認」というトピックにしぼって解説することで、一つの筋道を通し、初学者にも分かりやすくなっています。ただし反対に言えば、本書だけで『精神現象学』の全体像が分かるということはありません。それでも「承認」にしぼったことは次のような利点があります。まず「承認」あるいは「承認論」は、ヘーゲル哲学のなかでも、現代で盛んに議論されているトピックの一つで、また内容としても一般の読者になじみやすいもので例示できるからです。また「承認」は、『精神現象学』のなかにある様々なトピックのうちの一つとは言え、ヘーゲルにとっても最重要トピックの一つには違いありません。さらに著者自身も、ヘーゲルの承認論について専門的な論文を書いています*3。このような理由から、本書の構成はとてもうまいとかんじました。

 

2 本書の構成

 本節では本書の構成を説明します。本書の構成は放送に合わせて第1回から第4回までの全4章構成になっています(「はじめに」を加えると全5章)。前節で述べたように、本書は「承認」というトピックにしぼって『精神現象学』を解説しています。以下では、各回を概観しています。本節の最後に『精神現象学』の目次と、本書の各回がどこに対応するのかについての画像も添付しているので併せてご覧ください。

 第1回ヘーゲルについての歴史的な話や、当時の時代背景とともにヘーゲルが考えようとしたことが説明されます。もちろんここで著者が取り出す「ヘーゲルが考えようとしたこと」(16頁)は、ヘーゲルが考えようとしたことのうちの一つなのですが、ここで本書がどのような問題を軸にしていくのかが示されます。

 また『精神現象学』序文(Vorrede)の有名な真理論や、序論(Einleitung)の「経験」や「弁証法」概念について説明されます。さらに意識章の感覚的確信、知覚、悟性がまとめて説明されたあとに、本書の軸となる「承認」の概念、そして主奴の弁証法が解説されます。

 ここでは少ない紙幅のなかで、ヘーゲルにとって真理が過程であることや、新たな知を獲得するにあたって自己否定が必要であること、といった『精神現象学』において重要な考え方が手際よく解説されます。これら二つは本書の最後の結論も示唆しています。一方で確定的な真理はなく真理は過程であって、都度都度更新されていくものだという考え方は、「相互承認」によって万事解決というわけではなく、課題は課題として残り続ける、という最後の結論に通じています。他方で、自己否定についてはその「相互承認」が成立するために、対立しあう意識がしなければならないことでもあります。

 第2回は、いっきに精神章まで飛んで「B じぶんにとって疎遠となった精神 教養」が対象になります。ここでは18世紀フランスのやんごとない人びとのサロン文化などが話題になります。本書ではそれを現代の「論破」ブームと結びつけて解説しています。私自身、昔このB節を読んだときに、あまり理解できずにいたのですが、今回こういう話だったのかとようやく腑に落ちました(まだ原文を確認していないので実際に読み直したら違う感想を持つかもしれませんが)。「論破」をこととするおしゃべりがどれだけ不毛なのかを、『精神現象学』から学べるとはおもっていませんでした。

 第3回は、同じ精神章B節の「啓蒙」と「信仰」が対象になります。ここでは「陰謀論」やそれに対する「エビデンス主義」が例に出されます。もしかすると読者は、著者がやり玉に挙げる「自然主義」や「科学主義」に対して、疑問、反論を抱くかもしれません。ただ私として興味深いとおもったことは「エビデンスがあれば、対話のための信頼関係が構築されるなんてことはなく、信頼関係があって初めてエビデンスが意味をもつ」(93頁)という主張です。そうあるべきかどうかはさておき、事実としてそのようになっているという感触を私は持ちます。そしてそれゆえに、「承認」関係はなかなか難しいとかんじます。*4

 第4回は、「C じぶん自身を確信した精神 道徳性」(いわゆる良心節)が主題になります。ここでは自分の良心に従って義務を行う「行為する良心」と、その行為の一面性(悪しき面)を指摘する「批評する良心」との対立が描かれます。本書では、何らかの支援活動を行っているであろうNGOと、それに対してそのNGOは「私腹を肥やしている」と批判する人との対立が例として挙げられます*5。この対立が和解にいたるところでようやく「相互承認」にいたることになります。この相互承認の例として、本書では『進撃の巨人』のあるエピソードが挙げられます。『進撃の巨人』は私も好きでアニメを観ていたのですが、よい例だとおもいます。

 以上が本章の構成と概要です。以下に『精神現象学』の目次と各回の対応の画像を添付します。

 

『精神現象学』の目次と『100分de名著 ヘーゲル 精神現象学』の対応箇所

精神現象学』の目次と『100分de名著 ヘーゲル 精神現象学』の対応箇所

 

3 本書でよいと感じた点と不満点

 最後に本書で私がよいと感じた点と、不満におもった些細な点について書いていきます。

 

3.1 よいと感じた点

 本書では、解説の際の話題や例が、まさに今を生きる多くの人にとって馴染みのあるものばかりです。前節の概要でも触れたように、例えば、「分断」「SNS」「論破」「環境問題」「陰謀論」、あるいは「ケア」「フェミニズム」「LGBTQ」『進撃の巨人』など、現代人にとって馴染み深い話題や例がたくさん登場します。また、そうした話題を扱うなかで著者自身の思想的な立場も多分に出ていて、(その思想の良し悪しは受け手によって様々でしょうが)たんなる解説にはとどまらないものになっているところもよいところです。

 前節で具体例についてはいくつか触れていますが、そのなかで触れていないことについて、ここで紹介します。

 第1回で、いわゆる「主奴の弁証法」について解説する際に本書では「ケア」が例に挙げられています。まず主奴の弁証法とは、奴隷をこき使う自立的な意識としての主人と、主人に従属する非自立的な意識としての奴隷が、その自立性と非自立性に関して反転してしまう、という事態のことです。つまり、主人は実のところ奴隷の労働に依存しており、奴隷は自ら労働することで自立的に生きる術を手にしている、という仕方で、主人と奴隷の自立性と非自立性が反転してしまう、という事態です。

 本書ではこの自立性と非自立性とが反転する事態を、「ケア」の問題に引きつけて解説しています。例えば、婚姻関係にある女性と男性について、女性が家事をし、男性が会社で労働をする、という社会モデルにおいては、男性は自立的で、女性はその男性の収入に依存している、と考えられがちです。しかし最近そうした考えが改まってきているように、自立的だとおもわれていた男性は、実のところ女性の「ケア労働」に依存しています。本書は、ヘーゲルの主奴の弁証法を、婚姻関係にある女性と男性における旧来の自立性の理解を反転させる仕方に結びつけています。

 また、この文脈で岡崎佑香さんというすぐれた研究者も紹介されています(40頁)。岡崎佑香さんは主に、ヘーゲル(またカントやフィヒテ)についてフェミニズムや性などの観点から研究しています。こうした研究は比較的新しいものです。こうした研究が紹介されることでヘーゲルを読む際の新しい視点を読者は受けとることができるのではないでしょうか。

 

3.2 不満点

 最後に不満点を一点だけあげます。誤解なきようにもう一度申し上げておくと、ここで私が指摘する不満点は、当然著者自身も理解したうえでのことだということを断っておきます。

 ヘーゲルの入門的な説明では、「弁証法」の解説をすることが常のようになっています。ところで私自身は「弁証法」(より正確に言えばその原動力となる「矛盾」)は厳密に使わなければ、きわめて俗的な解釈や誤った解釈になってしまうと考えています。そのため、こう考えると専門外の人でも使えます!といった入門的な説明を見ると、弁証法はそんなに使い勝手はよくないとおもってしまいます。

 本書では「弁証法」について次のように説明されています。ある二つの矛盾する主張があり、どちらも一面的である場合、「弁証法とは、そのような「どちらも一面的で不完全」な状況において、両者を統合する、新たな知に至るための方法」(31)です。

 ところで私が入門的な説明のなかで最もしっくりきた解説は、大河内先生の「ヘーゲル入門」というYouTube動画での説明です。そこでは弁証法は「あるものが、自分を徹底していくと、自分とは反対のものに反転すること。その反転の運動。」というように説明されています*6。この「弁証法」の説明は最もミニマムな意味です*7。もちろんそのあとに、反転しあうもの同士が統合されて、より高次の段階にいたる、という展開はあるため、本書の説明は必ずしも誤りではありません。しかし対立しあう規定が自分を否定して他方へ反転するという運動なしに、「弁証法」と言われても、なぜそれが「弁証法」という名に値するのかが分かりません。

 ここからは私の解釈です。ヘーゲルの「弁証法」が、プラトンの「ディアレクティケー」やカント『純粋理性批判』の「弁証論(Dialektik)」といったものと同じ語ないし語源を共有するのは、「他方への反転」という点で共通しているからだと私は理解しています。プラトンのディアレクティケーは、ソクラテスが、知者だと自称する者との問答のなかで、その者が実は無知であったこと、つまり知者が無知者に反転しまうことを暴きます。カントの弁証論は、例えばアンチノミーに代表されるように、「世界には時間的始まりや空間的な限界がある」という主張と「世界には時間的始まりや空間的な限界はない」という主張が、つきつめると他方に反転してしまうことを呈示します。こうした連続性のなかで、ヘーゲルも「弁証法」という概念を用いているわけで、もしそのミニマムな意味がなければ、なぜその名前であるのかが不明なままです。

 本書の「弁証法」の説明すなわち〈矛盾しあう主張を統合して新たな知に至るための方法〉は、たんに「対話」や「熟議」などと呼んでもいいはずです。それがなぜ「弁証法」と呼ばれるのか、「他方への反転」という意味を削ぎ落してしまうと分からなくなります。しかし「弁証法」に「他方への反転」という意味を与えてしまうと、途端に使い勝手が悪くなります。というのは、何が反転するのか、どのようにして反転するのかを考えると応用しづらくなるうえに、さらに新たな段階に至る、という展開までを含めて考えなければならなくなると、汎用性がなくなるからです。この意味で私は一般の人にとっては「弁証法」は使い勝手がよくないと考えています。そして私はわざわざ「弁証法」の話をしなくても、ヘーゲルのよさは伝わると考えています。実際、本書から弁証法の話を

*1:番組サイトへのリンク。なお過去回も有料ですが、NHKオンデマンドで見ることができます(リンク)。

*2:このことはヘーゲル研究者の大河内泰樹先生が『精神現象学』を授業するときによく話していました。

*3:いま手もとにないため間違っているかもしれませんが、著者は「貧者は承認されうるのか?――資本主義における承認の野蛮化をめぐって」(『思想』No. 1137, 岩波書店, 2019年)という論文で、本書のクライマックスである「良心」章の承認論を扱っています。また現代の承認論の第一人者であるアクセル・ホネットの議論も踏まえて、それに対する批判も行っています。

*4:ところでこの「信頼」概念は第4回で主題になる良心章でも重要になります。第4回で「相互承認」が成立するためには、行為する良心と批評する良心の各々が自己否定をして、自分の非を告白し、相手を赦すということが必要なプロセスになります。本書ではさらりとしか触れられていませんが、『精神現象学』ではこの過程において、行為する良心は自分の非を告白したものの、それに対して、批評する良心の側が相手の非だけを認め、自分の非は認めない、という事態(「頑なな心情」(116頁))にいたる、という場面があります。本書では「これ以外の展開もあり得ます」(117頁)とあっけなく切り返して、理想的な相互承認への道すじを辿ってしまいます。しかし私自身、良心章を初めて読んだ時からの謎として、必然的に相互承認にいたる道のりが必然的であるならば(ヘーゲルはそのように書いているように見える)、頑なな心情の問題はどのように解決されるのか、ということを考えていました。この点について、岡崎龍さんというすぐれた研究者が、「ヘーゲル精神現象学』の良心論の特異性――良心の対立の内実と宗教への移行を巡って」(『ヘーゲル哲学研究』第27号, 2021年)という論文で、説得的な解釈を示しています。詳細は割愛しますが、岡崎龍さんが着目するのが、この第3回でもキーワードとして出てきた「信頼」という概念です。私が理解するところでは次のようにまとめられます。相手の告白を引き受けるには相手の言葉を信頼できることが必要ですが、結局のところ良心章の対立のように個々人間の対立において、相手の告白が本物であるかを信頼できるかどうかは未確定であり、それゆえに頑なな心のような事態にもいたりうる、というのがこの論文での指摘です。それではこの限界はどうなるのか、というと岡崎論文によよれば、精神章の次の宗教章でその克服が課題となるようです。本書では精神章の最後の良心章で終わっていますが、添付した画像にある目次を見ても分かるとおり、精神章から最後の絶対知章までのあいだに、宗教章があります。この宗教章は多くの場合、無視されがちですが、岡崎龍さんはこの宗教章の役割に着目しています。

*5:この例は、タイミングもありTwitterで話題になっていたある騒動を想起させます。ただ私の理解では本書でも説明されているように、ヘーゲルの言う良心は「道徳的な天才」(108頁)です。もし私が想起している騒動が例なのであれば、少なくともその騒動で批判する側は「道徳的な天才」とはおもえません。どちらかというと、「論破」や「陰謀論」の段階にある意識におもえます。そうだとすれば例としては適切ではないかもしれません。とは言え、私も一般に良心論を理解するときは、著者が例にしているものと同様の事例を思い浮かべます

*6:動画リンク

*7:ヘーゲルは体系期の『エンツュクロペディ』(ここでは第三版)のなかの「論理学」(通称『小論理学』)の「予備概念」(本論に入る前の前置きのような箇所)で、「論理的なもの」の三つの側面のうちの二つ目の側面を「弁証法的あるいは否定的-理性的側面」として特徴づけています(79節)。この「弁証法的」側面は、そのような〔固定的な〕諸規定が自身で自己を止揚すること、またそれらの規定が自分の反対のものへと移行すること」(81節)だとされます。固定的な規定とは、例えば主人が自立的で奴隷は非自立的であってその反対ではないという常識的(悟性的)な考え方のことです。そして弁証法とは、そうした規定がその反対のものへと移行すること、すなわち反転することだとされています。

【読書感想文③】坪光生雄『受肉と交わり:チャールズ・テイラーの宗教論』(勁草書房、2022年)

 

0 はじめに

 本記事では坪光生雄『受肉と交わり:チャールズ・テイラーの宗教論』(勁草書房、2022年)を扱う。前の二つの記事では『受肉と交わり』(以下、本書)の全体の概観と第I部の要約と感想(読書感想文①を参照)、そして第II部の要約と感想(読書感想文②を参照)を書いた。本記事はそのつづきで、この記事で最後になります。

 本記事では第III部の概要と「あとがき」で言及されていたテイラー(またはそのテクスト)と著者自身との距離について私が感じたことを書く。第III部は読書感想文①の各章の概要でも書いたように、テイラー自身の学問的方法と、本書で頻繁に登場する「世俗性」や「ポスト世俗」といった言葉が焦点になる。したがって第I部と第II部がテイラーのテクストを同じ目線で――とはいえそこには常に著者自身の繊細な反省が働いているのだが――論じるのに対して、第III部はテイラーのテクストをいわばメタに捉える視座を与える。

 

1 各章の概要と感想

 読書感想文①を参照。

 

1.1 第一章 「世俗化を語り直す――概念と歴史」

 読書感想文①を参照。

 

1.2 第二章 今日の信仰の条件――多元主義のポリティクス

 読書感想文①を参照。

 

1.3 第三章 受肉と交わり――「回心」のゆくえ

 読書感想文①を参照。

 

1.4 第四章 認識論と宗教史――多元的で頑強な実在論

 読書感想文②を参照。

 

1.5 第五章 世俗主義の再定義――普遍性と翻訳をめぐる対話

 読書感想文②を参照。

 

1.6 第六章 象りと共鳴――言語の神秘について

 読書感想文②を参照。

 

1.7 第七章 宗教学の倫理――アイロニーを超えて

 第七章は、テイラーの歴史主義的・系譜学的方法や解釈学的方法について明らかにされる。これまでの議論では、テイラーのラディカルな多元主義や、その多元性のなかで異なる立場の者同士が交わる可能性としての「会話」や「翻訳」というアイディアが提示されていた。しかし一読するだけでは、そうした多元主義のなかで「会話」や「翻訳」の可能性を主張するのは、何か「希望」のように見え、また「楽観的」におもえなくもない*1。本章ではこの点について、ガダマーの「地平の融合」という概念を借りながら、より具体的な道筋が示される。

 第1節では『世俗の時代』でテイラーが採用した歴史主義的・系譜学的方法について議論される。そのため本節は特に本書第I部で扱ったテイラーの議論の方法論が主題になる。ここでは、ハンス・ヨアス(※ヨナスではない)の「肯定的系譜学」やトレルチの歴史学論に依拠して、テイラーの独特の歴史的な語りの作法が明らかにされる。

 まずは一般的な「系譜学」とテイラーの歴史主義的・系譜学的方法との対比がなされる。著者によると、「「系譜学」という語は、事実上、その歴史調査に向かう各著述家の動機として、それぞれの対象に選ばれた概念や価値について彼らが抱く否定的ないし破壊的な意志を強く暗示する」(285-286)とされる。つまり系譜学者の歴史記述の動機は、まずある概念や価値観が所与のものとして普及しており、そうした状況に対する批判的な関心から、その概念や価値がどのように発生してきたのかを暴くなかで、現在の通念を揺さぶることである。それゆえ一般的な系譜学者は、現在の概念や価値を基礎づけるというポジティブな動機ではなく、むしろそれらを動揺させるというネガティブな動機に突き動かされている。『世俗の時代』で言えば、〈近代において自然科学が台頭し、それによって宗教が衰退する〉という「世俗化」の支配的な物語に対して、むしろキリスト教内部の「改革」のなかからその「世俗化」が生じてきたこと、そしてその結果として出てきた「排他的ヒューマニズム」には「アガペーに関するキリスト教的理解の歴史的な名残り」(51)があること、こうしたことを暴き出すことによって、通念とされる支配的な物語を動揺させている。

 しかし著者が指摘するように、「テイラーの物語は、そのような系譜学の否定的関心に最後まで貫かれているのではない」(287)。テイラーの意図は、「私たちの現在的な自己理解の改善に奉仕するため、より適切な歴史の物語を語り直す」(287)というよりポジティブなものである。ただしテイラーの語り方は「厳密に実証的な歴史学」(288)でもない。というのは、テイラーの語りは「過去を現在の生に結びつけ、そうすることで私たちの次なる一手につながる原罪的価値志向を明確化する」(289)という目的があるからである。こうした規範的な意図は実証的な歴史学には歓迎されない。

 したがってテイラーの語りは系譜学でも実証的な歴史学でもないことになる。テイラーの歴史的アプローチは「たんに系譜学と呼ぶにはポジティブにすぎ、またたんに歴史学と呼ぶには規範的な価値への志向が見えすぎる」(289)。そこで著者はテイラーの歴史学的アプローチを、ハンス・ヨアスに依拠しつつ「肯定的系譜学」(289)と呼ぶ。

 そして議論はヨアスからさらに、ヨアスがその範にするエルンスト・トレルチの歴史哲学に及ぶ。著者によると、「トレルチの目標は、純然たる事実の記述に自己限定する歴史学実証主義に満足することなく、また相対主義という悪しき歴史主義に陥らずに、むしろ歴史的・個性的なものの研究を通じて私たちの現在的な価値基準を獲得するための歴史哲学の道を示すことにあった」(290)とされる。トレルチからすれば、歴史学には避けがく歴史学者自身による現在の評価が紛れ込む。「歴史を語ることは、いつでもそれを語る者の現在的な営み」であり、「ある過去に関する意味や価値の解釈は、避けがたく歴史家自身の現在の実存による評価を含んでいる」(292)。そこでトレルチは歴史家自身の実存にこそ着目する。トレルチ的な「実存的歴史主義」の課題は「過去の研究を通じて現在および未来の価値基準を立ち上げる」(293)ことだとされる。これは先ほど述べた、『世俗の時代』において「世俗化の物語」を語り直すテイラーの意図と一致する。

 さらにこうした実存的歴史研究は、このように歴史を語る者自身の実存とその評価が深くかかわるがゆえに、それが扱うことのできる対象範囲は、「必然、歴史家その人が属する文化の限界内に制限される」(293)。第一章では、『世俗の時代』で語られる歴史は「北大西洋世界、つまり(元)ラテン・キリスト教界に生きる人々」(25)に限定されるということが言われていた。この限定を目にしたときに、適切な慎重さだと感じるとともに、ある種の「逃げ」のように感じなくもなかった。しかしこの第七章において、テイラーの語りがトレルチ的な実存的歴史研究のアプローチと重ね合わせられることで、その限定の意味が一層納得のいくものになる。

 さて第1節ではテイラー特有の歴史主義的アプローチが明らかにされたが、依然として相対主義の可能性は残る。歴史に関しては、それぞれの歴史家自身の実存が問題になる以上、異なる実存を持つ歴史家によって異なる語り方や価値評価がありうる。それだけでなく、第II部で語られた「多元的で頑強な実在論」や政治学におけるテイラー的な多元主義からも明らかなように、その他のトピックについてもテイラーは語りの多元性を主張していた。しかもその際、ハーバーマスの「世俗的な理性」のような一つの普遍的な共通の基準をテイラーは認めないため、とくに歴史や道徳などを含む「人間科学」に関してテイラー的な多元性のなかで、どのようにそれぞれの語りが交わることができるのか、そして交わることができたとしてたんなる相対主義に陥らずにそれぞれの語りのなかに何らかの優劣がありうる可能性はどのようにして担保されるのか、こういったことは問題として残る。この点に関しては第2節以降で「解釈学」を参照しながら説明される。

 著者によると「人間科学」は、対象の行動についてのたんなる客観的記述に終始することはできず、「行為者を当該の行為へと導いた本人の動機やその意味を理解することを目指して行う解釈作業」を含む、という点で、「解釈の学」でなければならない(300)。こうした「解釈」が入るということは、解釈者自身の主観的な要素(例えば、価値観や経験則など)も入るということである。しかしそれでも、その解釈について妥当性を問うことはできると言う。「人間科学が対象に与える新しい解釈の妥当性は、それによって当初の混乱が解消し、不明確だった対象の意味がいっそう整合的に了解可能になるという、いわばその効果の程度に等しい」(300)。

 整合性によって妥当性に優劣がつくという点は納得させられたが、少し考えてみると、妥当性は整合性とは別の要素もあるようにもおもわれる。私がおもいつくところで言えば、テクスト解釈系の人間科学では、対象となるテクストとの整合性はあまりないけれども、そのテクストを通してまったく新しいアイディアを提示した場合、その解釈は評価されるようにおもわれる*2。また、例えば詩について整合性が妥当性の根拠になりうるのだろうか。たしかに今問題になっているのは「人間科学」だが、第4節でさらに「会話」という人間科学の諸見解にとどまらない、その他さまざまなトピックに関する立場のあいだでなされる交わりについて議論が及んでいることからも、ここでの議論も「人間科学」にとどまらない射程を持っているはずである*3。詩は対象についての整合性というよりも、対象についての新しい見方を提示するもののようにおもわれる*4。こうした点がなお疑問として残った。

 本書の議論に戻る。うえで見たようにテイラーの解釈学はいわゆる「整合主義」(整合説)に近いように見える。すでに第四章で、多元的で頑強な実在論が主題になるなかで、それがローティの「整合主義」と異なるということが言われていた(読書感想文②の議論を参照)。本章第3節では、再度ローティとの対比が試みられる。

 たしかにテイラーは対象についての説明のなかに、客観的な記述だけでなく、「解釈」という項を差し込むことによって、「実在に関する強い形而上学的想定」(実在そのものについて語ることができるという想定)を放棄しているように見える(305)。形而上学を放棄するこうした態度はローティの言葉で「アイロニスト」(305)と呼ばれる。しかしテイラーはあくまで「多元的で頑強な実在論」を主張しているのだった。テイラーの実在論や解釈学においては、「たしかに自然主義的に介された「実在」や「事実」との対応としての真理概念は無効とされるが、語彙はなお語彙以外の何ものかにつなぎ留められている」(306)。

 ここで議論の参照軸としてさらにデイヴィドソンの「根源的解釈」が加わる。著者によるとデイヴィドソンの議論は、「翻訳不可能な「言語」など存在しない」(308)というものである。というのは、自分が使用する言語にまったく翻訳不可能な何か(そもそも言語でないかもしれない)について、それを「言語」だとか「何らかの真理を含んだ文の体系的相関」だとか認めることができないからである(308)。そのため異言語間で翻訳を行うときは、「善意の原則」にもとづく「根源的解釈」を行う。この原則は私たちに対して、「私たちが対象とする文に最大限の意味を与えようとする場合、まずは自分の言語に照らして、その文が真であることを受け入れる」(308)よう促すものである。つまりデイヴィドソン「すでに私たちの手に備わった言語の真理条件」(308)を元手に、他の言語を解釈するのであり、それで十分だと考えている。

 しかしこれに対してテイラーは、デイヴィドソンの「根源的解釈」は「自民族中心主義」(309)に陥ると批判する。「デイヴィドソンの理論が暗に頼りにしているのは、結局のところ「必要な用語はすでに自分の語彙のなかにある」という植民地時代からさほどかわり映えのしない宗主国的な自己信頼である」(310)とされる。他方でテイラー自身の「多元論」で言われていたことは、「言われるところの「何か」に対する応答として真であるような分節化の様式が複数ある」(314)ということだった(第四章での多元的な実在論の説明では、同じ〈金〉について、「自然科学的な原子番号79の物質」という語りと「神聖な物体」というエジプト人から見た語りの両方が真だということが言われていた)。

 一方で「言語相対主義者」は、言語の外側に参照軸となるような「実在」は存在しないとすることで異なる言語間の「共約不可能性」を説く。他方でデイヴィドソンは他者の言語を解釈する際の元手となる道具立ては自分の言語だとする。テイラーは、これらのいずれでもなく、一方で「永遠にまったく分かり合えない言語という想定が確かに不条理」としながら、他方で「他の言語に属するどんな文の意味も私の現在の言語におけるそれと変わりがない」とすることにも反対する(313)。そうではなく、テイラーの立場は、一方で「私たちの様々な言語はさしあたり多くの点で異なっている」ことを認めながらも、他方で「それらはいずれも真理を含むものでありえ、それゆえ究極的には相互に理解することができる」と考える(313)。そしてこうした多元性のなかで、それぞれが真でありうる立場のあいだで相互理解が成り立つ可能性を、テイラーはガダマーの「地平の融合」(312)に見出す。「私の地平は他者[...]の異なる地平、見たところ私の地平とは独立に自存すると考えられる別の地平との出会いによって変容を被り、拡張され、結果、その両者互いにとって共通の地平に私が身を置くようになるということ」、これが「地平の融合」としての「理解」だとされる(312)。ここではたしかに言語相対主義的な共約不可能性を越えた相互理解の可能性が開かれている。そして重要なことに、デイヴィドソンにおいては、自分の言語は他者の言語を理解する元手として固定化されていたが、テイラーにおいては自分の言語は他者の言語との出会いによって変容する可能性に開かれている。テイラーにとって「自己理解の変容を伴わない他者理解などない」(312)のである。

 テイラー的な多元的で頑強な実在論の要は、同じ内容(実在)そのものについて複数の正しい図式(例えば言語表現)がありうるという図式と内容の区別である。「実在それ自体については頑強に擁護しながらも、それを私たちにとってのものとして開示する正しい言語の形式は多数ありうるという、いわばマターとマナーの一定の区別に関する主張が、彼〔テイラー〕の前提をなしている」(332)。これは「図式〔マナー〕と内容〔マター〕の区別」をテイラーが堅持することでもある(332)。ただし通常、図式と内容の区別は、図式(例えば言語表現)は内容(実在)それ自体については表現できず、つねに内容を捉えそこなってしまうというネガティブな面を含みうる。しかしテイラーの場合には、いずれの図式も正しく内容を捉えている可能性をもつというポジティブな理解をしているところに特徴があるだろう。もちろんそのうえで、「地平の融合」によってそれぞれの図式(言語表現)のあいだに理解可能性が担保され、そして「整合性」の度合いによってそれぞれの解釈の妥当性が吟味される。

 ここで議論は以前の章で語られていた「会話」に接続されるが、ここで疑問が生じた。著者によると、宗教学者としての解釈者は「多様な宗教による個別の真理請求がすべて何らかの実在への応答として真であるかもしれないという可能性に賭けつつ、互いに論点先取を慎みながら行う「会話」へと自己を投げ込む」(334)とされる。しかし、ここでは宗教学者が何らかの宗教行為者を対象にするという事態が想定されている(実際、本章はテイラー独自の学問的方法論について語られる賞である)。そうすると、これは宗教学者が対象となる宗教行為者を一方的に解釈する場面であって、相互的な会話が成り立つような場面ではなさそうである。もちろん宗教学者はその解釈にあたって対象の宗教行為者の語彙に耳を傾けるだろう。しかし宗教学者自身が自分の語彙を対象者に伝え、対象者自身が宗教学者(対象者にとっての対象者)に同様の解釈をするといったことはないだろう。私は、「会話」ということである共通のトピックについて、互いに異なる立場のあいだに生じる営みを想定していた。それゆえ他者の言葉を理解することで、互いが自己理解の変容をともなうことになろう(「自己理解の変容を伴わない他者理解などない」)。しかし宗教学者と宗教当事者とのあいだには、宗教学者自身の自己変容は成り立ちそうだが、宗教当事者自身が宗教学者によって自己変容をともなうことは――少しはあるかもしれないが――あまり考えられない。こうした場面でも「会話」と呼ぶにふさわしいのだろうか、ということが疑問として浮かんだ。

 本章は、これ自体でも十分読むに値するが、本書のこれまでの議論をふまえると、それらの議論をより一層深めたり、それらに俯瞰した視座を与えたりするという点で、とてもおもしろく読めた。

 

1.8 第八章 「ポスト世俗」の諸相

 本章では、本書や本書が集中的に扱った『世俗の時代』でも頻出する「世俗」という言葉、そしてとりわけハーバマス以降に活気づいた「ポスト世俗」という言葉、これらについて検討される。すでに読書感想文①で述べたように、自然科学の発展やそれにともなう「近代化」によって、それまで支配的だった宗教の信ぴょう性が崩れ、宗教が衰退するという支配的な世俗化の物語に対して、カサノヴァがポーランドアメリカなどの実例を紹介しながら、宗教がいまなお政治の領域でも大きな力をもっていることを明かした。そしてハーバーマスはそうした状況を踏まえて、宗教が衰退したとする「世俗」のフェーズから、現在がむしろ宗教が公共圏で力を発揮しているフェーズにあると理解し、そうした状況を「ポスト世俗」という標語で表現した。

 著者によると、テイラーもこうした「ポスト世俗」の哲学者・思想家と見なされているようだが(337)、しかしテイラー自身が著書のタイトルに選んだのは、『世俗の時代』であり、そこでの問いは「私たちが世俗の時代に生きているとはどういうことか」(338)というものである。こうしてみるとテイラーはあくまで「世俗」という言葉にこだわっているようにも見える。したがってテイラーを安易に「ポスト世俗」論者に加えるのではなく、テイラー自身による「世俗」や「世俗性」といった概念、また「ポスト世俗」という概念一般について検討することで、たんなる標語以上の”繊細な”議論をすることが本章の目的だと言えるだろう。

 本章ではこれらの概念について最終的に一義的な定義が与えられるわけではない。むしろそれらの概念についてのさまざまな意味が提示され、初学者は圧倒させられるかもしれない(私はパンクしそうになった!)。しかし本章の意図はそもそも、「この言葉〔ここではとくに「ポスト世俗」を指す〕の解釈に伴う複雑性をどうにかして縮減するというのではなく、むしろその尽くしがたい多義性に慣れ親しむことで、自身に備わる言葉への応答可能性――少なくとも議論を経る以前の状態よりは――増大させる」(368)というものである。「この議論の後ではもう「ポスト世俗」という言葉を、また同時に「世俗」や「宗教」という言葉をも、たんなる道具として気楽に使用する気にはならない」(368)。第一章で見たように、「世俗の時代」というものが、各人がどのオプションを選ぼうとも、もはやそのオプションを唯一のものとしてナイーブに確信することはできず、つねにその確信を動揺させられる時代の名だとすれば、何らかの一義的な定義を手にしたという確信に対してつねに「反省的であることを自らに課し、そのことをたえず自主的に点検し続ける」(368)ことこそ、「世俗の時代」の思考様式であろう。こうして著者は、「世俗」や「ポスト世俗」といった概念を詳細に検討することで、まさにテイラー的な「世俗の時代」の思考的な態度を示したのである。

 本章での詳細な概念分析は実際に読んだ方がいいだろう。ここでは本章のなかで本筋の議論とは別に興味深いと感じた点に言及したい。それはハーバーマスとテイラーの違いである。一方でハーバーマスが「ポスト世俗」という標語のもとで、宗教が公共圏で発言力を持つと主張する場合、そこで考えられているのは「主要な世界宗教」(354)である。つまりハーバーマスは「ポスト世俗」においてもあくまで「世俗的理性」を基準に考えており、その「世俗的理性」の対話相手となれるのは、「教義を精緻化していく過程で高いレベルの内的合理化を達成した諸伝統〔の実定宗教〕」(355)のみなのである。他方で、テイラーは第一章でも触れたように、伝統的な実定宗教だけでなく非伝統的なスピリチュアリティも重視する(359)。テイラーにとって「世俗の時代」ではあらゆるオプションがその確信を動揺させられる以上、ハーバーマスの言う「世俗的理性」も、また伝統的な実定宗教も、スピリチュアリティに対する特権性は持たないのである。

 

2 著者とテイラーとの距離について

 最後に「あとがき」に書かれていた著者とテイラーとの距離について、私なりに思ったことを考えて、この長い読書感想文を終えたい。

 本書を読んでいると、著者自身の語りがテイラー自身の語りと見分けがつかないかのような印象をもつことがある。このことについては著者自身も何度か指摘を受けてきたようで自覚的である(380)。私自身、以前ある哲学者を研究していたときにそのような指摘を受けたことがあり、地の文に埋め込んでいた引用をブロック引用に変えたり、研究対象の名前を明記して「〇〇は…と言う」などと書き方を意識した。著者もおそらくそうした工夫をしてきたのだろうと推測される。しかし指摘を受けてもなお著者には、テイラーに肉薄する語りの印象が残されている。それについて著者は「距離を置くことがいつでも対象のよりよい理解につながるとは限らない」(380)と弁明する。

 私自身、著者のこの意見に賛同する。テクスト解釈において〈対象と距離を置くこと〉は重視されるのがつねであり、私もこれはおおむね正しい態度だと理解している。ところで一般に研究者が対象にするテクストは、必ずしも一般にウケのいいものではない。例えば、古いテクストであれば、いわゆる〈現代的な常識〉なるものからすれば、受け入れがたい内容(神や自然科学にかかわる主張など)もある。そうした場合に、〈対象と距離を置くこと〉は容易に〈対象を”現代的な常識”から批判してみせること〉――嫌な言い方を敢えてするならば〈”常識人”ぶること〉――になりかねない*5。しかし〈現代的な常識〉からすれば受け入れがたいことにこそ、対象自身の独自性や意義があることもある。本書で言えば、例えばチャールズ・テイラーの宗教的な背景である。チャールズ・テイラーを〈現代的な常識〉から理解しようとするならば、「方法論的無神論」の立場をとりその宗教性を無視あるいは非難してみせて、テイラーの政治思想(その他、認識論や言語論などでもよい)のみを取り出そうとするだろう。しかし本書は、むしろテイラーの宗教性にこそ着目する。その点だけで、ある読者にとっては〈対象との適切な距離がとれていない〉と感じるかもしれない。

 しかし私の読んだ感触から言えば、著者には書き方について、引用に語らせるのではなく、もう少しブロック引用を使ってそのあとに著者自身の解釈を付することを多めにするといった工夫はあってよかったかもしれないとおもう一方で、著者が「テイラーを無批判に読んでいる」などとはおもわなかった。そもそも本書を読むかぎりではテイラー自身の語りが、積極的な主張と自己批判とをつねに同居させたようなものである。そうしたテイラーの思想に肉薄する著者の語りも、テイラーへの賛同と批判とをつねに同居させた慎重な内容になっている。感覚的な言い方が許されるならば、著者の文章には、テイラーのテクストを読むたんなる高揚というよりも、「世俗の時代」においてこのテクストを誠実に読み解こうとする苦悩のほうが感じられた。

 実際、著者はテイラーのテクストに対して明確に距離をとっている。その証拠に、著者は第III部でテイラーの「学問的方法」についてメタ的に検討をくわえている。とくに第III部の前書きにあたる5頁におよぶ文章からは、その検討それ自体が含む「アポリア」(281)に自覚的になりながらも、なおテイラーのテクストを「外に開」(282)こうとする著者の誠実な様を読みとることができる。私は、私自身はもちろんのこと、いわゆる〈常識的〉な書き手の文章からでも、著者以上に反省を働かせている書き手を見たことはない。その点からしても、著者とテイラーとの距離感が適切であるかどうかは分からない――そもそも私には適切さを判断できない――が、著者は少なくとも自分の確信がつねに揺さぶられる時代にあるということに自覚的にテイラーのテクストを読み解いているようにおもわれる。私自身は本書、そして本書を通してテイラーのテクストを読むことで、自己理解の変容をせざるを得なかった。こうしたテクストは控えめに言っても優れたテクストだと言ってよいだろう。

*1:第五章では、「共通性」ではなく「差異」を強調するバトラーの目から見て、「テイラーが交わりに寄せる希望は、バトラーにとっては楽観的にすぎ、現実離れしたものかもしれない」(230)と著者は言う。

*2:ただしこの場合には、テクストそのものとの整合性は少ないかもしれないが、論者が論じたいトピックや対象を新しいアイディアによってより整合的に説明できる、という点での整合性が評価されていると理解することもできる。例えばカントのテクストから動物倫理の議論を文字通りに取り出すことはできないが、カントの義務論あるいは動物倫理の議論をより整合的に説明するために、カントのテクストに依拠して新しい義務論的な動物倫理を打ち立てるということもありえる。

*3:もし整合性によって妥当性が決まるという主張が「人間科学」あるいはそれを研究する学者の言説にのみ適用されるのだとすれば、その他の宗教家の語りや詩人の語りの妥当性はどのように決まるのだろうか。

*4:著者の言葉では「詩人は新しい表現形式を開発することで、同時に新しい啓示の対象となる何かを始めて顕現させるないしは新たに創造する」(166)と言われる。ここで語られる詩人の特徴には対象の理解についての整合性を増すといったことは含まれていないようにおもわれる。

*5:〈”常識人”ぶること〉は、本書での議論からすれば、ウェーバー的な〈男らしさ〉(87)に通じるかもしれない。

【読書感想文②】坪光生雄『受肉と交わり:チャールズ・テイラーの宗教論』(勁草書房、2022年)

 

0 はじめに

 本記事では坪光生雄『受肉と交わり:チャールズ・テイラーの宗教論』(勁草書房、2022年)を扱う。前回の記事では『受肉と交わり』(以下、本書)の全体の概観と第I部の要約を書いた。本記事はそのつづきです。今回も書いていたら長くなったので第II部(第四章、第五章、第六章)を扱って、そのつづきは次の記事に譲ります。

 前回の記事で1の冒頭で述べたように、第四章から第六章までの第II部は、第I部で『世俗の時代』の読解から取り出されたテイラーの核心的な諸思想を、別の著作の別の文脈に即して展開している。おおざっぱに言うと、第四章は認識論存在論に、第五章は政治学に、そして第六章は言語論にかかわる、と言うことができる。そのため、こうした分野に興味のある人にとっては他の章よりも比較的興味深く読むことができるだろう。ただし、どの議論においてもテイラーの宗教論あるいはキリスト教論が背後にある、ということは共通している。

1 各章の概要と感想

 前回の記事を参照。

 

1.1 第一章 「世俗化を語り直す――概念と歴史」

 前回の記事を参照。

 

1.2 第二章 今日の信仰の条件――多元主義のポリティクス

 前回の記事を参照。

 

1.3 第三章 受肉と交わり――「回心」のゆくえ

 前回の記事を参照。

 

1.4 第四章 認識論と宗教史――多元的で頑強な実在論

 第四章は、認識論や存在論という比較的哲学的な色合いの濃い議論になっている。そのためそうした分野に関心をもつ人にとっても興味深い箇所だろう。ここでは主にテイラーとヒューバート・ドレイファスとの共著『実在論を立て直す』が参照される(こちらは共著ではあるが、以下では簡略化のために基本的にはテイラーのみを主語とする)。とは言え、やはりここの議論もテイラーの宗教論とは不可分である*1

 テイラーが批判するのは主客二元論に基づくいわゆるデカルト”的二元論である。この二元論では、第一章で論じられていた「緩衝化された自己」と同様に、心と世界あるいは主観と客観とのあいだに明確な区別を打ち立てる。そして、心の外にある実在についての「知識」は、直接得られるのではなく、「観念」を通して媒介的に得られる(189)。それゆえこの二元論にもとづく認識論は「媒介説」(190)とも呼ばれる。

 これに対して、テイラーが主張するのは、「接触」(190)である。これによると、「知識は観念的表象という媒介にではなく、私たちが世界と直に接触することに存する」(190)とされる。この描像においては、私たちは世界から切り離された「どこでもないところからの眺め」から世界に対するのではなく、むしろつねにすでに「世界内存在」として世界のうちに存在することを「不可避の「背景」」とする(190)。

 心と世界との二元論を架橋しようとする点ではテイラーは『心と世界』のジョン・マクダウェル*2と同じ路線であると言えるかもしれない。しかしマクダウェルとテイラーは経験的な知識の形成にあたって、「概念能力」に重点を置くか、それとも「身体」に重点を置くかという点で異なる。つまりテイラーは、マクダウェルと違って、そもそも「概念的信念」を形成することができるためには「前概念的」な、世界に対する身体的なかかわりが必要だと考える(192)。例えば幼児の成長過程のように、「これらの学習はまず概念の助けを借りずに行われるが、なお世界と自己に関する能動的な「理解」を伴っている」(193)とされる。

 さらにテイラーはローティとも対比される。ローティもまた伝統的な哲学的二元論を批判していたからである。このときローティは「知識に対応する根拠が実在世界のうちに見出されるとする「基礎づけ主義」を廃棄して「整合主義(coherentism)」を支持する」(194)。ローティは、心から切り離された外的実在についての知識はその外的実在が根拠づけるというような主張に対して、この主張のもとにある二元論そのものを拒否して、ある信念は他の信念によってのみ正当化されるという整合主義をとる。こうしたローティの立場は「反実在論」(194)だとされる。

 反対にテイラーの立場は「実在論」、しかも「頑強な実在論」(195)である。そこにおいては、「私たちの知覚や行為は、まずは自らの身体の構造、そして周囲の世界の諸条件によって限界づけられている」(196)。この実在論はさらに「多元的」でもある。ここでの多元的実在論は、「科学的な記述が真である場合、それは実在的実在それ自体に対応するものであるという主張を積極的に認めるが、他方で科学的な記述が実在の唯一の本質を捉えているとは考えない」(201)。例えば、金という存在者は、科学的説明では原子番号79の物質として同定されるが、他方で古代エジプト人にとっては「聖なる輝きを放つ神聖な物体」(201)である。多元的実在論はこれらどちらも真なるものとして認めるという意味で「多元的」なのである。したがって「「多元的で頑強な実在論」にとっては、実在世界との接触を通じてその世界を開示する方式が複数ありうるということ、しかもそのいずれにも、実在との接触およびその開示として、それぞれにおいて真である可能性がある」(202)。この多元的で頑強な実在論は、のちにテイラー自身の宗教学に関する多元論にも通じてくるが、その際には「翻訳」という問題についてローティやデイヴィドソンに対するガダマーとの比較という文脈で再度明確にされており、こちらも非常に興味深い(第七章, bes. 332)。

 ところで、ある実在について多様な語りが可能であり、それらの語りはそれぞれが真でありうるという多元的で頑強な実在論の議論は、物自体への唯一真なる語りを許容しないという点では、物自体を不可知とする観念論にも似ているように見える。しかしこれがあくまで「実在論」であるのは、どの語りも、その語りがそれについて語っているところの実在そのものについての語りであるということを認めるという点にあるのだろう。というのは不可知論に立つならば、「実在そのものについての語り」ということは言えないだろうからである。テイラーの立場は、あくまで人が世界の中に存在し、そして身体をとおして実在に直接アクセスできるという点を重視しているのである。

 本文に話を戻すと、こうした多元的な実在論相対主義に陥るという懸念が生じうる。さらに、それぞれの語りに価値の優劣がないのであれば、科学史における「いくつかの不可逆的な進歩、よりよいものへの「交替」」(196)や、例えば「奴隷制の廃止や女性の参政権の確立、人権に関する合意の拡がり」(203)のような「不可逆的な政治的・道徳的達成」(203)についても語ることができなくなる。テイラーはどちらの不可逆性についても肯定する。後者について言えば*3、異なる語りがあるなかで、ある一定の価値観に収束するという可能性、ロールズの言葉で言えば「重なり合う合意」の可能性を担保する共通の地平は、「人間の身体の不変の構造」に求められる(203)。人間の身体の構造が不変であるがゆえに、「人間学的な諸見解の真正性に関しても一定の制限を課さざるをえない」(203)。やはりここでもテイラーは「身体」を重視する。

 「重なり合う合意」の可能性を「人間の身体の不変の構造」に求めることは興味深い。ただしもう少し具体的に、「人間の身体の不変の構造」からどのように例えば「人権」についての「重なり合う合意」が成立するのかについての道すじの可能性を示してほしいと感じた。また私の理解では、「人間の身体の不変の構造」もどのように語るのかで見方が変わってくるようにもおもわれる。例えばジェンダーの区別についても、スポーツの場面ではテストステロン値をもとにジェンダーが振り分けられてしまうが、そうした仕方には疑問がもたれる(この点については清水晶子『フェミニズムってなんですか』の読書感想文においても触れた)。ジェンダーに関するテイラー自身の考えについては著書では以下のように少しだけ触れられる。つまり、「テイラーは、性的アイデンティティをまったく融通無碍なものとして個人による決定自由に任せる道も、また他方ハンス・ウルス・フォン・バルタザールのような神学者とともに性差に関する永遠不変の定義にこだわる行き方も、同様に拒否する」(206)。そして「テイラーはいわば文化的変数と人間的定数のそれぞれに関する、より繊細な感覚の必要を訴える」(206)と言われる。ここで「文化的変数」と言われているのは、ジェンダーをどのように規定するのかという文化・社会的な構造の側面のことだろう。他方で「人間的定数」とはテイラーが言う「人間の身体の不変の構造」のことだろうか。そうだとすると、テイラーの主張は、ジェンダーに関する文化・社会的な側面と「人間の身体の不変の構造」の両方を重視せよ、と主張していることになるが、この主張は一方では矛盾しているようにもおもえるし、他方では当然のことのようにもおもえる。前者については、文化・社会的に身体理解が左右されることを認めながら、その身体構造が「不変」だということは矛盾するのではないか、ということである。後者について言えば、「人間の身体の不変の構造」を〈人間という類の身体が他の類に比べておおよそ共通していること〉と言いかえるならば、そのおおよその共通性と、おおよそ共通している身体を文化・社会的にどのように理解するのかということ、これら二つのことを同時に考えるということは、敢えて言う必要もなく当然のことのようにおもわれる。

 さて、本書の議論に戻ると、テイラーが「多元的で頑強な実在論」においても「身体」を重視することは、第三章で示された、テイラー自身の「受肉」の理解(前回の記事を参照)とも通じている。こうしてここにも、テイラー自身の宗教論が含まれているのである。

 

1.5 第五章 世俗主義の再定義――普遍性と翻訳をめぐる対話

 本章では主に、ハーバーマスやバトラーとの議論のなかでテイラー独自の「世俗主義」が扱われる。「世俗主義」とはフランス語では「ライシテ」と呼ばれるもので、それはきわめておおざっぱな言い方をすれば、一般的には公共的なもの(例えば国家)が特定の宗教の影響から独立しなければならないという考えのことである。本章ではまず、この世俗主義における「国家の中立性」を何からの中立性と捉えるかという点で、テイラーとハーバーマスが対比される。ただ、そうした世俗主義の社会において、さまざまに異なる立場が同じ権利をもって互いに対話するときに、互いの思想をどのように「翻訳」するのかという問題が生じる。バトラーはこの「翻訳」の問題をハーバーマスとテイラーに対して投げかける。この文脈で本章では、テイラーが「翻訳」をどのように理解しているのかが明らかにされる。

 まずハーバーマスとの対話について。テイラーもハーバマスも、宗教が近代化のなかで公共的領域から私的領域に移り主張力を失っていくという支配的な物語に対して、現在においても宗教について公共的な議論における発話者としての重要性を認めるという点で共通する。しかしハーバマスとテイラーには決定的な違いもある。

 一方でハーバマスは、あくまで「「公共的」な、つまり一般的に共有された言語で表現されうる」(218)、「世俗的な理性」(218)を優位に置くハーバーマスからすると「宗教的信仰やその真理は、[...]どんな人にでもわかるという種類のものではない」(218)。それゆえ政治的公共圏で宗教が何がしかを語るにしても、「非公式的な政治的公共圏で語られる宗教的な言語は、公式の政治制度においては誰もが理解できる「世俗的」な言語へと翻訳されねばならない」(219)とされる。つまりハーバーマスにとって、正しさの基準は世俗的な理性の方にあって、宗教に発言権を認めるにしても、宗教は世俗的な理性にとって分かることばで語る必要がある。こうしてみるとハーバーマス的な世俗主義は、「宗教」を標的にし、その宗教からの公共的なものの中立性を担保したうえで、世俗的な言語に翻訳するかぎりにおいて公共圏への宗教の参入を認めるものである。したがって「ハーバーマスの「翻訳」は、共同体的党派性からの離脱と、より包括的な理性性=公共的しざへの移行として要請されている」(222)。

 他方でテイラーの世俗主義は、宗教だけでなく非宗教的なものに対しても向けられている。つまりテイラーの世俗主義は「宗教と非宗教のどちらにも不当に肩入れすることがないよう国家に中立性を求める」(214)。それゆえテイラーは「宗教的言語がハーバーマスの言う「世俗的」な言語に言い直されなくてはならないという必要を認めない」(219)。著書で引き合いに出されている例を借りれば、キングの演説のように「深く宗教的な色合いを帯びた言説でも、多様な聴衆にとって広く説得的なもの」であることはありうるし、他方で「カントに依拠した「世俗的」な主張であっても、人によってはまったく理解されない可能性がある」(219)。テイラーにとって「「世俗の時代」とは、何であれ多様に可能となった諸立場が互いの核心を弱める立場である」(215)。この諸立場には宗教的なものだけでなく非宗教的なものも含まれる。それゆえハーバーマスのように非宗教的な世俗的理性の言語に頼ることはできないのである。しかしこうしてそれぞれの立場を橋渡しするはずの基準となる言語がなくなり、それぞれの立場がそれぞれ特有の言語で語るという場合、それらの立場はどのようにして「会話」をすることが可能なのだろうか。

 この点についてのテイラーの回答は、バトラーの問題提起に対するテイラーの応答という仕方で示される。「共通性」よりも「差異」を強調するバトラーにとって、ハーバーマスもテイラーも「本来解消不可能な差異をも消去できる」(226)と想定しているようにおもわれた。そのなかでバトラーが提起するのは、そもそもそうした「翻訳」が可能なのかどうか、ということである。テイラーは、ハーバーマスのようにより上位の中立的普遍性(世俗的な理性)に訴えることはせずに、「翻訳」を構想する。テイラーは「翻訳」つまり「トランスレーション」の古い意味「司教の教区移動」を引き合いに出すことで、「翻訳」という語を「境界を飛び越えること」として理解する(227)。テイラーは、それぞれの言説が固有の差異を帯びながら、そこに様々に敷かれた教会を飛び越えていくこととして「翻訳」を理解し、そしてこれを「普遍化」と理解する(229)。つまりテイラーにとっての普遍性とは、多様なものどもに共通する何らかの性質ではなく、「境界横断的な一致」(229)のことである。

 ここではテイラーの「翻訳」の構想や、その特有の「普遍性」理解が明らかにされた。ただし、それがより具体的にどのようになされるのか、ということについてはまだ議論が不十分であるように見える。この点については、のちの第七章においてガダマーの「地平の融合」の議論をとおしてより詳細に議論されることになる。

 

1.6 第六章 象りと共鳴――言語の神秘について

 テイラーの思想は、「物語」や「会話」そして「翻訳」など、これまでの議論のなかで出てきたキーワードを見てみても、言語の問題が深くかかわっているようにおもわれる。実際テイラーは独自の言語論をもっている。本章では、こうしたテイラー特有の言語論が話題になる。

 テイラーによると、近代以降の言語理論は二つの立場の対抗として描かれる。一方のものは「はめ込み理論」と呼ばれる*4。この理論では「言語は言語に対して独立的な対象に関する記述や、究極的には人間の生存という目的にとって有用な道具として説明される」(234)。つまり言語に先立って、すでに出来上がった対象や、人間にとっての目的があり、言語はその対象を人間が適切に指示するための道具として、あるいは人間の生存目的にとって有用な道具として理解される。これに対して他方のものは「構成理論」と呼ばれる*5。この理論では「人間的生にとっての目的や有意味性は言語とは独立にすでにそこにあるものではなく、むしろ言語がそれらの枠組みを構成する」(235)とされる。テイラーが強調したいのは、言語が「人間的生や活動の全般的文脈を創出する」(238)という特性である。

 ただし、テイラーははめ込み理論に代表される「指示的-道具的な言語理論」を排除するわけではない。テイラーは「人間的意味」(「メタ生物学的意味」とも呼ばれる)と「生命的意味」とを区別したうえで(239)、はめ込み理論は後者を捉えるには適切だが、前者を捉えることまではできないという点で、はめ込み理論を批判する。「人間的意味」とは、「「生存」という目的に先決定されない、それゆえ前言語的動物との連続性において把握することの困難な、人間の言語的次元に固有の意味」(239)のことだとされる。著者が例に挙げるのは「愛」である。「愛」をもし「生命的意味」で理解するならば、「生殖ないし種の保存という自然的-客観的目的」に還元されてしまう(239)。しかし「そのような説明は何か重要なものを捉え損ねているという感覚がすぐに生じる」(239)。「愛」のようなものは、「生命的意味」ではなく「人間的意味」または「メタ生物学的意味」の領域のものとして捉える必要があるのである。もしはめ込み理論のように「生命的意味」にのみ還元してしまうならば、「愛」の意味が捉えそこなわれてしまう、というのがテイラーの問題意識である。実際テイラーは、「自然科学など、対象のより正確な記述が問題となる「事実的なもの」の領域」では、「指示的-道具的な言語理論」を認め、他方で「道徳や美学の領域に属する「規範的」な意味」については、構成理論をとる(251-252)。

 ところでこうした言語の構成理論の観点から、言語の重要性を説くテイラーの主張は、第四章で展開された身体を基軸とした多元的で頑強な実在論と折り合いが悪いようにおもえる。この点について著者は説明を与えている。著者によると、テイラーにとって「人間的な意味と身体とは密接不離の関係にある」(240)。テイラーの言う人間的意味を表現する言語は、狭い意味ではなく、例えば「絵画・音楽・舞踊等を含む諸々の芸術表現によって、そしてまた色々な価値や世界観を体現する日常的な「実行=実演(enactment)」(240)も含む。このように人間的意味に関して、言語と身体とは対立しない。

 言語が身体と対立しないとすると、両者は具体的にどのような関係しあっているのだろうか。この点について私は著書を一読するだけでは理解できなかったが、少なくともどちらか一方が他方に還元されるわけではないようである。一方で「テイラーはたとえば身体的諸条件が言語の「起源」である等と主張したのではない」(250)。テイラーはあくまでも言語の構成的な側面を認める。ただし他方で言語は「世界そのものを無から創造するのではない」(250)。やはりあくまで人間が世界の中に存在し身体を通して実在と接触するという「多元的で頑強な実在論」において示された条件は変わらない。言語がなすことができるのは、そうした条件のうえで「ものごとを明瞭にする力によって、世界が私たちに関係する在り方に変化を生じさせる」(250)ということである。これは何かの知識によっていわば〈解像度が上がる〉ということだけではないだろう。それだけでなく例えば著書が第三章(bes. 163 ff.)で分析しているホプキンスの詩をとおして、自然の個物の営みのなかに神の御業を感じとることで、世界との関わり方が変化するということもある(テイラーの言語論における詩の重要性については本章第4節でも主題になる)。

 テイラーが詩を重視することとの関連で興味深いと感じたのは、「「文字通り」の意味をもつ理論的言語と、詩歌や物語のような文彩を凝らした言語との一般的な区別において、前者が後者に優越するという見方」(240-241)への批判である。著者は「哲学者たちがいわば綾のある言葉に対して差し向ける敵意は、こうした理論的なもののヘゲモニーを反映している」(241)と言うが、私自身の感覚で言えばまさにその通りだとおもう。とくに最近では哲学研究においても「明晰さ」が当然のように求められ、何か深淵な表現や詩的な言葉遣いは忌避される。一読では難解であるような古典的なテクストについての哲学史研究もまた、宗教の言葉を世俗的な理性の言葉に翻訳するかのように(第五章)、深遠な言葉を「明晰な」言葉や具体例に落とし込むように矯正される。私自身アカデミックにいたときには自らをそのように矯正したし、他の論文にもそうあってほしいと期待し、またそれを促すような意見を言うこともあった。しかし本書を読むと、そうした「理論的言語」では取りこぼしてしまう領域はたしかにあるのだろうという感覚になっている。このあたりの問題は引き続き考えていきたい問題である。

 さて本文に戻ると、ここでは前章に引き続きやはりまた「翻訳」が問題となる。事実的なものの領域であれば、著者が挙げる例のように、例えば〈イヌ〉を「犬」や「dog」や「Hund」と別々の言葉で表現したところで、それらのあいだの翻訳は可能だろう(272)。しかし著者自身が指摘するように、テイラーが重視する「人間的意味」の次元、しかもそれを表現する芸術作品については、それぞれの作品のあいだで完全な翻訳は不可能だろう(272)。しかしだからといってテイラーは「文化的-道徳的な相対主義者」(272)ではない。本章ではこの「翻訳」の問題については暗示的なことが言われているだけのように見えるが、そのなかでテイラーからの引用のなかにハンス・ゲオルグ・ガダマーの「地平の融合」という概念が登場する(273)。テイラーが「文化的-道徳的な相対主義者」ではないとするならば、異なる立場のあいだで翻訳が可能であること、またさまざまな言説のなかで妥当性に優劣がありうること、これら二つのことが示される必要があるだろう。これについては第七章で「解釈学」を手掛かりにより詳細に示されることになる。

 本章はテイラーの言語論を詳細に扱っており、当然ながらこの概要だけでは汲み尽くせない豊富な議論が展開されている。私にとって本章は本書のなかで最も難解だった。それは「詩」や「象徴」「メタファー」などに関する議論が、「理論的なもののヘゲモニー」に準じてきた私にとって難解に感じられたということかもしれない。今のところ言語化できる疑問点を取り出してみるならば以下の点が挙げられる。つまり、言語の構成的な側面はどれほどの射程をもつのかという点である。先に見たように、テイラーは意味を「生命的意味」と「人間的意味」に区別して、後者を取りこぼさないためにということで言語の構成的な側面を強調していた。しかし他方で、「メタファー」(これも言語の構成的な側面を担う表現方法)については、「文字通りの意味として介されるべき厳密な記述語もまた、その由来においては部分的にメタファーに依存している場合がある」あるいは「言語の記述的使用は全体としての言語に依存しており、メタファーによる象りはその全体としての言語の重要な一次元を構成している」と言われる(243)。そうだとすれば、言語の構成的な側面は、いわゆる「理論的言語」(「文字通りの意味として介されるべき厳密な記述語」)を可能にするということになる。この点については具体的にどういうことなのかがもっと知りたいと感じた。

 とはいえ本章は多分に示唆的な議論を含んでおり、分からないなりにも興味深く読めた。ぜひ実際に手にとって読んでほしい。

 

第III部以降の議論は別の記事につづく。

*1:実際、本章の議論は、タラル・アサドによってテイラーに対してなされた批判、つまりテイラーの『世俗の時代』は「宗教における身体的・感覚的なものの意義に対して十分な関心を払っていない」(188)という批判に対する、著者なりの応答として企図されている。

*2:ジョン・マクダウェル『心と世界』神崎繁他訳, 勁草書房, 2012年.

*3:科学史におけるよりよいものへの「交替」は「有用性」(196)という観点から説明される。つまり科学史におけるそれぞれの発見は、有用性という観点から私たちの日常把握を改善することによって、もはやそれ以前に立ち戻ることができない知識となる。

*4:この理論の代表者としてはホッブズ、ロック、コンディヤック(HLC)が挙げられる(235)

*5:この理論の代表者としてはヘルダー、ハーマン、フンボルト(HHH)の三者が挙げられる(235)

【読書感想文①】坪光生雄『受肉と交わり:チャールズ・テイラーの宗教論』(勁草書房、2022年)

 

 

0 はじめに

 本記事では坪光生雄『受肉と交わり:チャールズ・テイラーの宗教論』(勁草書房、2022年)を扱う。書いていたら長くなってしまったので、本記事では『受肉と交わり』(以下、本書)の全体の概観と第I部の要約を書く。

 さて本書の目的は、坪光生雄(以下、著者)によると、「現代のカナダを代表する哲学者チャールズ・テイラー(1931-)の宗教論を理解すること」(2*1)だとされる。そして本書で、とりわけ扱われるのは、『世俗の時代』(原書2007年;邦訳2020年*2)である。実際、本書で幾度となく言及されるテーマは、テイラーのカトリシズムや「世俗化論」に関する議論である。とはいえ、本書は特定の学問分野の研究として片付けることはできない。本書は、チャールズ・テイラーその人の記述がそうであるように、あるいはそうであるがゆえに、様々な分野にまたがる研究となっている。それは宗教学または宗教社会学、神学、政治学、文学、哲学(そのなかでも認識論や存在論そして歴史哲学)など、議論領域は多岐にわたる。しかも本書のそれぞれの論考が、各分野に対応するということではなく、それぞれの論考でこれらの議論領域が複雑に絡み合っている。

 「チャールズ・テイラー」という名前を聞いて、テイラーその人にあまり慣れ親しんでいない私でもすぐに思いつくのが、政治理論分野での「多元主義」というキーワードである。本書はこうしたテイラーのよく知られた立場を、たんなる政治理論としてではなく、その背景にあるテイラー自身の宗教学あるいはカトリシズムから解きほぐそうとするものである。これを聞いて本書を手にとるのをやめてしまう人もいるかもしれない。しかし、それがもし「方法論的無神論」のような態度にもとづくのであれば、まさにその態度がどのような「物語」に基づいているのかについての反省も本書は促してくれる、という意味で本書を手にとるのをやめてしまおうと考えた人にこそ本書を手にとってほしい。

 まずは出版社である勁草書房の関連サイトで無料で掲載されている本書の「はじめに」(リンク)を読んでいただきたい。ここで本書の全体像、また文体、そして思考の癖をうかがい知ることができるだろう。いま「思考の癖」と言ったものは、次のような著者の論述の態度のことである。著者は、一方でいわゆる「アカデミック」な”常識”からすれば宗教的にかなり立ち入った議論をしているが、他方でその論述は誠実な「留保」をともないながらきわめて反省的できわめて抑制的である。本書を読んで分かることは、まさにこうした論述の態度こそテイラーの思考の手つきでもある、ということである。著者自身「はじめに」の最後で次のように言う。

このような留保のつけ方がどこかテイラー的だとすれば、本書が取り組むのは、テイラーについての研究であると同時に、こう言ってよければ、それ自体テイラー的であるような研究である。(16)

 さて、以下ではまず本書の全体の概観を示し、それから第I部の各章の感想を書く。なお、本書あるいはテイラーに対する私自身の疑問点も書いているが、これは当然、私の読解が不十分であることに起因する可能性もあることを断っておく。

 

1 各章の概要と感想

 各章の概要に入る前に、各部の概観を説明することで全体の見通しをよくしたい。本書は第I部「宗教」(第一章、第二章、第三章)と、第II部「認識、政治、言語」(第四章、第五章、第六章)、そして第III部「宗教学と世俗性」(第七章、第八章)、これら三つの部からなる。

 第I部では主に『世俗の時代』が取り上げられ、テイラー自身の「世俗化」の「物語」の内実や、政治的な多元主義とその背景にあるテイラー自身の「信仰」が明らかにされ、そしてテイラーのカトリシズムに裏打ちされた「受肉」と「交わり」の信仰(これがテイラーの哲学的・政治的多元主義につながる)が明らかにされる。つまり、第I部では、それ以降の議論で幾度となく言及されることになる、テイラー自身の基本的な思想が『世俗の時代』を通して明らかにされる

 第II部では第I部で明らかにされたテイラーの諸思想が、テイラーのその他の著作でどのように変奏されているのかが示される。そのため、第I部が比較的、宗教学の度合いが高かったとすれば、第II部は例えば認識論や政治理論あるいは言語哲学などよりその他の学問領域の研究という色合いが強い――もちろんだからといってテイラー自身のカトリシズムが脱色されるわけではない。それゆえ、宗教論にうまく馴染めない人でも、第II部の議論は比較的興味深く読むことができるだろう。

 第III部では、テイラー自身の学問的方法が話題になる。さらに「ポスト世俗」という流行語のさまざまな用例を見るなかで、テイラーにおける「ポスト世俗」の方向性が示される。

 以上のように見ると、本書は第I部でテイラーの宗教論からテイラー自身の基本的な諸思想を明らかにし第II部でそれらの思想を宗教論とはまた別の議論文脈に位置づけなおす、そして最後に第III部でこれまでのテイラーの学問的方法を反省するというきわめて理に適った構成になっている。それでは以下で具体的に各章の概要と感想を述べていく。

 

1.1 第一章 「世俗化を語り直す――概念と歴史」

 本章は、タイトルにあるように、従来の支配的な「世俗化論」をテイラーがどのように語り直すのかが示される。支配的な「世俗化論」は「減算の物語」(26)と呼ばれる。というのは、この物語においては、自然科学の発展やそれにともなう「近代化」によって、それまで支配的だった宗教の信ぴょう性が崩れ、宗教が衰退する(=「宗教がいわば引き算される」(26))という物語が語られるからである。しかしこうした支配的な「世俗化論」にはすでに批判もある。例えばホセ・カサノヴァは『近代世界の公共宗教』*3において、具体的に現代のスペイン、ポーランド、ブラジル、アメリカなどを検討することによって、宗教がたんに私事として縮減されたり(私事化)、衰退したりするのではない状況を示している。実際、私たちもアメリカの政治状況をニュースで見るたびに、そこに宗教の力が動員されていることを目にする。またユルゲン・ハーバーマスも宗教がその重要性と妥当性を失うという支配的な「世俗化論」を批判し、「リベラルな民主制の政治的正当性の基礎づけにあたって、宗教がある種の制限のもとで公共的討議に参与することは必須」(23)だとする*4

 支配的な物語に対して、テイラーが語る物語は、「世俗性の主たる淵源」をカトリック教会のなかで生じた広汎な「改革」に認め、そこから「不信仰=排他的ヒューマニズム」がいかにして人々の「有力なオプション」となったか、を語り出す(41)。この物語に対しては別の物語の可能性ももちろんあるが、私にはこの物語はとても興味深く、耳を傾けるべき物語だと感じられた。

 テイラーの物語のなかで重要な転換は「多孔的な自己」から「緩衝化された自己」への転換である。テイラーは、現在の「脱魔術化」された世界(自然科学中心のいわゆる「近代」)に対して、それ以前の世界を「魔術的な世界」と呼ぶ(38)。この魔術的な世界は、「霊や道徳的な諸力」に満ちているとされ、人々は例えば聖水や聖遺物のような霊的なものによって、傷ついたり癒されたりする。このように自己と世界との境界線が曖昧で、世界からつねに干渉される自己が「多孔的な自己」と呼ばれる(38)。これに対して、脱魔術化以降の世界では、いわゆるデカルト的な主観と客観の二元論に代表されるように、自己(心)と客観的世界のあいだには境界線がはっきりと敷かれ、自己は世界の外的な諸力から守られて、つまり「緩衝」されている(39)。このような自己が「緩衝化された自己」と呼ばれる。そのためテイラーにとって、ウェーバー由来の「脱魔術化」は、「経験や認識のモードの変容とその固定化、「多孔的な自己」から「緩衝化された自己」への移行」に関わるとされる(39)。

 ところでここで私としては疑問が生じた。「緩衝化された自己」と「多孔的な自己」という明確な区別はありえるのだろうか。本書では孔が開かれているのは、「魔術的なもの」に対してだという想定に立っているように見える。しかし「魔術的なもの」以外にも私たちは様々な言説や拡散するイメージなどに開かれたままなのではないか。「緩衝化された自己」という自己像もまた、そうした”近代的な自律”や”マッチョな自己”あるいは”自己責任論”などの多種多様な言説やイメージによって侵された結果なのではないか。もちろんテイラー自身は「緩衝化された自己」に対して批判を加えるものの、近代がそうした自己像のありようをしているという点については認めているようにも見える。実際、著者も「私たちが現在の「緩衝化された自己」を捨て去り、再び「多孔的な自己」を生きるようになることは可能だろうか」(358)といった問いを立てている。ここには現在の私たちが「緩衝化された自己」であるという事実認識がある。反対に、もしテイラーの主張が、〈近代は「緩衝化された自己」という自己像を打ち立て、「多孔的な自己」を棄て去ったつもりでいるが、しかし実際のところ近代においても人は「多孔的な自己」でありつづけている〉というものであれば、私の疑問は生じないがそうなってはいない。

 さて、こうした「世俗化」の物語が行きつく最終局面は、「既存の外在的または超越的な規範への適合よりも、自己自身の選好、個性の表現、内面的/感情的な充足等に重要性が置かれる」時代、すなわち「本来性の時代」である(64)。つまり、聖なるものへの信仰は所与のものではなく、当人が当人自身の心に響いたときに選びとられたものだということになる。実際、「制度化された「宗教」に対抗する「スピリチュアリティ*5」(68)は現代に広くありふれている。ここで私が興味深いと感じたのは、テイラーがこの「スピリチュアリティの真正性を擁護する」(69)という点である。しかも興味深いことに、テイラーは「スピリチュアリティ」のなかにテイラー的な意味での「宗教」*6を見出そうともする(69)。このように伝統的な実定宗教だけでなく、スピリチュアリティも含む非伝統的な宗教も、「会話」の発話者となることができるという点は、ハーバーマスとの違いにもなる*7

 ただし、テイラーは「この時代における霊=精神的なもののすべてが、必ず集団的ないし社会的なつながりを欠いた携帯をとって現れる」とは考えない(70)。例えば諸個人がそれぞれが探求する自分のスタイルを呈示しあい(「相互呈示」(66))、相互に共鳴し合い「集合的沸騰」(66)に至ることもありうる。その際に、各人は「何らかの集団的な忠誠の形を、個人的な充溢の求めに応じ、いわばあえて選び直す」(70)ことになる。

 以上のことからすると、「世俗の時代」においては、伝統的な宗教も、スピリチュアリティも、非宗教的なものも多様な形態をとりながら、すべてが各人のオプションとなりうる。「世俗の時代」の特徴は、こうした「オプションの多元性がもたらすナイーブな確信の動揺」(73)である。つまり、各人はどのオプションを選ぼうとも、もはやそのオプションを唯一のものとしてナイーブに確信することはできず、つねにその確信を動揺させられるということ、このことが「世俗の時代」の特徴だとされる。

 

1.2 第二章 今日の信仰の条件――多元主義のポリティクス

 本章では、テイラーが考える今日の信仰の在り方が明らかにされる。ここでの著者自身の問題背景は、テイラーの『世俗の時代』での語りを、「「未来」に世俗の時代の終わりを、またはキリスト教の勝利を見る護教論」(81)として読む解釈に対して批判し、別のテイラー読解を示すことにある。そこで著者が本章で示そうとするのは、一方で或る種の自然主義や科学主義を批判しながら、他方でそれらを強化しもする「内在的枠組」を今日における信仰の条件ともするテイラーの複雑な語りの実像である。

 「内在的枠組」とは、前章で語られた脱魔術化以降の「人々の一般的な経験様式」(83)である。つまり、脱魔術化以降、人々は主観(心)と客観(自然的世界)との厳密な区別において、心は外部からの干渉を受けずにむしろ外部から緩衝され、ただ「内面性」(83)によってのみ価値や意味が規定される。それとともに、外部世界は、「超自然的」であったり「超越的」であったりすることをやめ、ただ「自然的」で自己充足した「内在的」秩序として理解される。つまり人々の心からも外部世界からも超越的なものがなくなり、「内面的」または「内在的」にのみ経験されるようになるところの、その経験の枠組が「内在的枠組」と呼ばれる。

 自然主義や科学主義のように、あくまで内在性にとどまり超越を認めない立場もある。しかしテイラーによれば、そうした「内在性への閉鎖」は「内在的枠組」にとっての唯一のオプションではなく、数あるオプションのうちの一つにすぎない(84)。実際、第一章で見たように、「内在的枠組」のなかにある現代においても、「超越」を志向する可能性には開かれていた。

 テイラーにとって「内在的枠組」は選ぶことができるような一つのオプションではなく、信仰に先行しそれを規定する「信仰の条件」(86)である。他方でテイラーが批判するのは、「〔内在的〕枠組を閉鎖〔e. g. 「自然主義唯物論」(96)〕か開放〔e. g. 「原理主義的狂信」(96)〕のいずれかの方角へと偏向させる読解のヘゲモニー」、とくにそれらのうちでも支配的な「閉鎖の側に偏向した描像」である(86;〔〕内は引用者による補足)。

 ここで私が興味深いと感じたのは、「閉鎖の側に偏向した描像」に固執する「学術界」(86)への批判である。 こうした閉鎖的なアカデミックの態度の代表として挙げられるのが、『職業としての学問』を著したウェーバーである。ウェーバーは「合理化・主知化・脱魔術化を「時代の宿命」とする近代世界においてなお新しい宗教的信仰を画策する知識人層の動向のうちに「知性の犠牲」を見、それを「男らしさ」の欠如に結びつけた」(87, 注12)とされる。裏を返せば、ウェーバーは、脱魔術化された近代世界において、学問は「知性」的で「男らし」くあれ、と考えていたということになる。ここには知性を縮減して、しかもそれを「男らしさ」のうちに収奪する様が見てとれる。しばしば人文社会科学系学問が、自然科学を範とした学問の基準から、その妥当性を疑われることがある。これはもしかすると人文社会科学が有害な「男らしさ」にさらされているということなのかもしれない。ただしもちろん、人文社会科学のなかでも、例えば宗教学における「方法論的無神論」のように「男らしさ」によって、「宗教」の”におい”がする言説を抑圧することはある。実際、テイラーの『世俗の時代』を「護教論」として批判する者は、テイラーの語りがアカデミックの男らしい態度に反する点に異議を唱えている。

 話を戻すと、テイラーが閉鎖的な立場を批判するからといって、それはテイラーが人々を「キリスト教的な教義に対する信仰へと向かうよう呼びかけ」(94)ているわけではない。むしろテイラーは、閉鎖的であれ開放的であれ、内在的枠組をどちらか一方にのみ偏向する立場を批判することによって、「人が別の方向へと傾くことも可能になる、そのような選択自由へと〔内在的〕枠組みを開く」(94)のである。

 本記事ではこれ以上触れることができないが、本章ではさらに、のちの議論でもさらに論議されることになる、「受肉」と「脱肉」や、「カテゴリー的暴力」=「釘的な暴力」=「スケープゴート」の問題、「会話」とそれによる「重なり合う合意」など、重要な論点がテイラーのキリスト教またはカトリック理解において明らかにされる。

 

1.3 第三章 受肉と交わり――「回心」のゆくえ

 本章では『世俗の時代』のなかの、とりわけ「問題含み」な最終章「回心」が扱われる。「問題含み」とされるのは、本章ではテイラー自身のキリスト教信仰からくる語りが「全面的に開示」(121)されているからである。そうしたテイラーのテクストを扱う本章じたいも研究として独特である。まずタイトルからも想像されるように、本章は神学的、宗教学的な研究である。またテイラー的な「回心」の例として文学や芸術が参照されるため、本章は文学研究の側面ももつ。さらに本章は、テイラー独特の「時間」概念をめぐる歴史哲学的側面ももつ。そして本章で明らかにされる「テイラーの受肉と交わりの信仰」が「立場を異にする他者の会話に積極的に開かれようとする彼の哲学的・政治的多元主義の動機となってもいる」(179)かぎりで、本章は「哲学的・政治的多元主義」に通じる側面も持つ。

 まず本章の議論で興味をもったのは「コード・フェティシズム」とそれへのテイラーによる批判である。「コード・フェティシズム」とは、平たく言えば、何らかの道徳的目標に関する元々の動機よりも、その目標のための単一のコードそのものを崇拝し、それからの逸脱を厳しくとがめる、そういった態度のことである。そのためこの場合には、「一度コードが確立された後には、もっぱら個々の行為や選択に対するその適用が問題となり、道徳的目標に関するそもそもの深い動機は忘れ去られがちである」(134)。

 ここで若干疑問として浮かんだのは、テイラーは「コード・フェティシズム」に対してどのような態度をとるべきだと考えているのかということである。私の考えでは、「コード・フェティシズム」化してしまうことは不可避的であるようにおもう。例えば何かの目標のために日々練習や訓練を反復しつづけるとき、目標を忘れて反復することそのものに固執してしまうことは避けられない。かりにこのように「コード・フェティシズム」が不可避であるのだとすれば、「コード・フェティシズム」的な態度を徹底的に排除することは難しいようにおもわれる。私の考えでは重要なのは、「コード・フェティシズム」が不可避であるなかで何か問題が生じたときに、当初の目標や動機に立ち返ることができるのか、ということである。

 本書の議論に戻ると、単一のコードにのみ固執することは、問題状況の複雑さに対応できないし、様々な善の多元性も承認できない(135)。そしてそれは容易に「カテゴリー的暴力」(136)に通じる。カテゴリー的暴力とは、例えば〇〇人といったような他者のカテゴリー全体に対して向けられる暴力であり、その代表例がショアである。

 興味深いのは、この「コード・フェティシズム」批判もまた、テイラーによるキリスト教理解からくるということである。テイラー、そしてテイラーが学んだイリイチによると、キリスト教的「隣人愛」は、「誰か=ある身体(some body)に対して臓腑から沸き起こる応答」(137)である。つまりこの愛は、他人の身体が自分自身の身体に引き起こす感情であり、その意味で「肉的」(137)である。他方で、「コード・フェティシズム」においては、この愛が「制度化」され「形式的規範」となってしまうことによって、当初の身体的な要素が抜け落ちてしまう(137)。この事態は、「受肉」と反対の意味で、「脱肉」(139)と呼ばれる。こうした観点からテイラーは「今日のキリスト教の性規範、性的・感応的なものの倫理的抑圧を問題の多いものと考えている」(171)。反対に、テイラーが考える「教会」は、「はらわた感情」にもとづく隣人愛によって織りなされる「生きたネットワーク」また「アガペーのネットワーク」である(138)*8

 本章はこのようにテイラーの核心的な思想を、そのキリスト教理解から解きほぐしている。このようにキリスト教的背景からテイラーの思想を論じることで、テイラーの思想の妥当性が何か損なわれてしまうと感じる人もいるかもしれない。しかし私はこの解明の仕方には意義があると考える。その意義はいくつもあるだろうが、一つ上げるとすれば、先に述べた一部のキリスト教の抑圧的な性規範への批判についてである。テイラーによるその批判は、中立を自負する「どこでもないところからの眺め」からのものではなく、まさにキリスト教の内部からのものである。「どこでもないところからの眺め」から、キリスト教の抑圧的な性規範を批判するのではなく、キリスト教の内部からそれを批判することによって、より実感のこもった応答や「会話」が可能になるとおもわれる。

 以上で第三章を要約してきた。当然のことだが、実際の著書では、私が要約して肉をそがれて骨だけになった議論よりも、より充実した議論が展開されている。シャルル・ペギーやジェラード・マンリ・ホプキンスの詩についての細やかな読解などは、要約してしまうと重要なものが削ぎ落されてしまうようにおもわれたため、無粋な要約はしなかった。ぜひ実際のテクストを読んでほしい。

 

第II部以降の議論は別の記事につづく。

*1:以下、引用後の括弧内の数字は本書の頁数を指す

*2:チャールズ・テイラー『世俗の時代 上・下』(上巻: 千葉眞監訳, 木部尚志・山岡龍一・遠藤知子訳; 下巻: 千葉眞監訳, 石川涼子・梅川佳子・高田宏史・坪光生雄訳)名古屋大学出版会, 2020年.

*3:ホセ・カサノヴァ『近代世界の公共宗教』津城寛文訳, 筑摩書房, 2021年.

*4:テイラーとハーバーマスとの違いは、本書のなかで何度か検討される。そこでは例えば、「重なり合う合意」における「普遍性」(第五章2節)や、宗教の語りの「翻訳」の問題(第五章第2節, 第3節)、そして耳を傾けられるべき「宗教」として考えられているものの外延(第八章第2節)などについてが論点となる。

*5:この「スピリチュアリティ」という語で含意されているのは、「客観化され制度化された外的権威に対する主観的経験の先行と優越」(68)だとされる。

*6:テイラー的な意味での「宗教」にとって重要なのは「超越」という概念である。この「超越」概念の規定の仕方も興味深かったが、簡潔に言えば、「超越」の中核となる意味は「「人間の繁栄(human flourishing)」を超える善や目標に関する理解」(32)である。つまり「人間的繁栄を超える終極的目標を認め」ないヒューマニズムに対して、宗教はそうした繁栄を断念することもありうる「超越的な善の観念」を持つ(33)。

*7:ハーバーマスが対話相手と認めるのは「主要な世界宗教」だけだという点は第八章で言及される(bes. 354)

*8:ここでは、テイラー独特のカトリシズム(普遍主義」としての多元主義を同時代的なネットワークとしてイメージしているが、テイラーの多元主義には歴史的な時間軸も含まれる。ここにはシャルル・ペギー読解に由来するテイラー独自の歴史哲学あるいは「永遠」理解がある。テイラーは「あらゆる歴史の局面を――ただし、それらの多様性はそのままに――永遠性という全体のうちにかき集める、いわば歴史的な普遍主義(カトリシズム)」(158)をとる。この歴史的普遍主義においては、ある特定の時代のキリスト教信仰が黄金時代として基準にされ、それ以外の時代がその基準から断罪されたりすることはない。むしろその歴史的普遍主義は、それらの多様な信仰を、断罪することなく、その多様性そのままにつなぎあわせる。

【読書感想文】清水晶子『フェミニズムってなんですか?』

 

1 はじめに

 本書は2020年4月から2022年3月までにVOGUEのウェブページにて連載された記事をまとめたもの。2020年から2022年の二年間には、Covid-19の流行や、ジョージ・フロイドの死を受けたBlack Lives Matter運動、東京オリンピックパラリンピックの延期や開催、アメリカにおける「中絶」をめぐる問題等々、さまざまな出来事があった。本書は著者自身が言うように、「網羅的なもの」でも「何らかの基準で体系化されたもの」でもない(5)。しかし本書は、この二年間で起きたその時々の社会問題や事件などのタイムリーな話題を扱いながらも、何度も繰り返し議論されてきたしこれからも議論されていくような重要な問題を扱っている。「フェミニズム」がどれだけ多くの問題に取り組んできたか、どれだけ多くの変革をなしとげてきたか、どれだけ多くの立場がありうるのかなど、一部ネットでは「フェミ」と一言で片づけられてしまう「フェミニズム」がどれだけ多様なのかを垣間見ることができる。

 

2 本書の構成

 本書は、著者自身が言うように「スポーツからアート、性暴力から婚姻まで、さまざまなトピックを扱」っており、「それぞれ一応は独立してい」るため、どこから読んでもいい(5)。本書の節は大きく、著者自身の文章による節と、著者と対談者との対談からなる節の二つに分かれている。著者自身の文章では、最初の二つの節で「フェミニズム」とは何かという一般的な話と、フェミニズムの大まかな歴史が書かれている。また、つづく第三節は第二派フェミニズムの、そして第四節は第三派フェミニズムのより詳しい解説になっている。

 全16節のそれぞれのトピックはとても興味深いし、たんなる時事的な話題ではおさまりきらない根本的な問題を扱っている。それ以外の三つの対談もどれもおもしろかった。

 対談Iは写真家の長島有里枝さんとの対談。二人とも「自分の身体」に向きあうなかで戸惑いを苦悩をかんじつつ、それぞれの身体イメージがある意味では正反対の方向だという点がとても興味深かった。これは対談IIIでも問題になる、それぞれの女性の身体感覚や経験の違いの一例だろう。また、1990年代の長島さんのヌード作品についての「言説」に対して当時著者が違和感を感じ、その結果長島さんの作品を「私が観たいものではない」と距離をとってしまった経験、そしてその違和感を呼び起こした言説が「「権威」ある男性たち」(55)のものであり、そのような言説によって女性たちの連帯の契機が阻害された、という話は現代でもいくらでもありそうだとかんじた。

 対談IIは、スポーツとジェンダー研究が専門の井谷聡子さんとの対談。オリンピックをめぐる性差別や人種差別などを、オリンピックの歴史から暴きだしている。また、スポーツ競技一般の「ジェンダー化された基準」とその「公平性」についての議論も今後さらに注目されるものだとおもった。例えば「テストステロン値」を目安にジェンダーを区別する場合に、どの値を規定値にするかについては絶対的な基準はなく、そのために、ニュースにもなったように例えばセメンヤ選手が国際大会から排除されるなどの事態が起こっている(154)。科学的に数値化できるものだから厳密な基準だとおもわれるかもしれないが、テストステロン値そのものは「この値は女性です」とか「この値は男性です」とかを告げるものではない。どの値を規定値にするかは、それを設定する科学者などが生活する社会・文化的な背景がかかわってくる。さらに「体育」が「技能習得」と「自分の身体と向きあうための知識を習得」することの二つの役割を担っており、日本では圧倒的に前者に力点がおかれているという話もおもしろい(158)。前者の場合では、体育は「より速く、より高く、より強く」を目指すことになるが、後者の場合では何よりもまず「自分の身体がどのように動くのか、不調を整える(もしくは予防する)ためにどうコンディショニングするのか」(158)を学ぶ。後者の体育がもっと増えると、体育が好きな人も増えるかもしれない。

 対談IIIは作家の李琴峰さんとの対談。ここではトランス排除的な一部のフェミニズムの言説や「表現の自由」の問題、そしれそれらをめぐるSNSの現状などが話題になる。これらの現状を日ごろ目にしていると、それらを思い起こしてとても暗澹たる気持ちなるとともに、何か明快な解決策が提示されるわけではないため、本書の最後にして最も暗い気持ちになってしまった。とは言え、この対談では解決策ではないにしても、その現状を一部でも理解する言葉が得られた。

 

3 「フェミニズムとは何か」という問い

 著者自身「「フェミニズムってなんですか」という問いには、ひとつの定まった答えを出すことはできません」(4)と言い、さらに「この本は「フェミニズムとは何であるのか」に対してひとつの正解を提示することを目指してはいません」(5)と言う。それでもやはり「フェミニズムとは何か、何をするのか、何をするべきなのか、を問うべきではない、ということではないし、ましてや、フェミニズムが何をしてきたのかを知ることに意味がない、ということでもありません」(4)と著者は言う。一般に、Xについての厳密な定義ができないからといって、そのXについて語ることが不可能になるというわけではなく、「X」と称してきた、または称されてきたものどもが何をしてきたのかや、どのような傾向にあるのかを見ることで、Xに近づくことは可能だろう。

 著者自身は第一節で、「フェミニズムの三つの基本」を提示する(11 ff.)。

 (1)「改革の対象は社会/文化/制度であると認識すること」

 (2)「あえて空気を読もうとせずに、おかしいことをおかしいと思う(言う)こと」

 (3)「フェミニズムはあらゆる女性たちのものであると認めること」

まず、(1)については、性差別的な言動をする個人というよりも、その背景にある社会や制度に対して批判の矛先を向けるということ。差別一般についても言えるのかもしれないが、差別的な言動を目にしたときに、その言動を可能にしてしまっている制度や構造に批判を向けるという意識は忘れずにいたい。もちろん、例えば森喜朗のように、社会的に影響力のある個人に対しては、その個人の言動を批判することは重要だろう。

 (2)については、そのようにフェミニズムはそうした変革をめざすがゆえに、「違和感や憤り」(14)をぶつけるということ。”女性は話しが長いからわきまえろ”という意味にもとれる発言で問題になった森喜朗の件をおもいおこせば*1、(2)は「フェミニズム」の基本的な特徴になるだろう。

 (3)については、「フェミニズム」のなかでも「女性」ということでどこまで視点が行き届くかによってさまざまな立場があるようだ。例えば、第二派のフェミニズムが「家父長制や男性支配からの解放を目指す「理想的なフェミニスト」像を創造しようとし」た一方で、その際にイメージされていたのが「高等教育を受けた白人の中・上流階級」の女性であり、それ以外の女性が周縁化されてしまうということがあった(36)。これに対して、第三派フェミニズムは、第二派の限定的な「女性」像を乗り越えて、「人種や階級、セクシュアリティなど、さまざまに異なるバックグラウンドを持つ女性」(37)にまで裾野を広げた。また最近でもトランス女性を排除するような言説が一部のフェミニストから出ている。トランス排除的な一部のフェミニストに関する話題は、著者と李琴峰さんとの対談のなかでも議論されている。その際、「身体感覚や経験を共有する難しさ」から、この話題について議論されている(235 ff.)。「フェミニズム」は、さまざまな仕方で分断されてきた「女性」をつなぐ思想でありながらも、それぞれの〈女性〉が別々の身体感覚や経験をもつがゆえに、一枚岩にはなりきれない。「フェミニズム」には共感と違和感が共存している。

 

参考文献

清水晶子『フェミニズムってなんですか?』文藝春秋, 2022年.

UAPじゃなくてUFO!:『NOPE』(ジョーダン・ピール監督、2022年)

 

1. はじめに

 『ゲット・アウト』、『アス』を見返して、ようやく映画館に『NOPE』を観に行った。予告編で出てきたからネタバレにはならないだろうけど、UFO的な何かがここまで恐ろしくホラー的に映し出されるのは初めての体験だった。音、映像そしてその見せ方どれをとっても贅沢で、舞台となる場所は殺風景な荒野がほとんどだけれど、とても充実した映像になっていた。

 前二作は奇抜なアイディアによって、社会的問題もうまく取り入れられていて、その点もジョーダン・ピール作品の見どころの一つだった。本作を見終わったとき、恥ずかしながら私は今回の作品が表のストーリーとは別にどういった問題を描こうとしているのかが分からなかった(それでも楽しめた)。しかしいくつかのレビューを見ていると、「映画」や「映画史」における「見る/見られる」の権力関係、またそのなかでの人種差別問題を描いているのだと知って腑に落ちた*1。すでに優れたレビューがあるので、この記事では枝葉末節のUFO関係の話題について触れたい。

 本作のあらすじは次のようなもの。映画撮影用の馬を育てる牧場を経営するOJ(ダニエル・カルーヤ)と父親のオーティス。オーティスはある日、空から落下してきた物体によって突如として死を迎える。残されたOJは父親の仕事をつぐために、自ら調教師として映画の撮影現場に向かう。しかしOJは口下手で、俳優や撮影クルー(多くは白人)とうまくコミュニケーションがとれない。そこに兄とは違って弁が立つ妹のエメラルド(キキ・パーマー)がやってきて、兄の代わりに一席ぶつ。しかしエメラルドが目を話している隙に、OJの忠告を聞かない撮影クルーの不手際によって馬が暴れてしまう。肩を落としながら牧場に帰る兄と妹。しかしそこで二人は未確認の飛行物体を見る。二人はそれを撮影して一攫千金を狙おうとするが...

 

以下、ネタバレあり

 

 

2. 「古代の宇宙人」

 本作には、字義通りの未確認飛行物体(UFO)が登場する。OJとエメラルドがUFOを撮影しようとして街の大型スーパーで撮影機材を買うときに、店員のエンジェル(ブランドン・ペレア)と出会う。このエンジェルがいいキャラだった。エンジェルが信頼に足る人物だということは、エンジェルがヒストリーチャンネルの「古代の宇宙人」を激推ししているところから容易に推察できる。「古代の宇宙人」と言えば、ヒストリーチャンネルのなかでも最も”真実”に迫った大人気ドキュメンタリーシリーズで、基本的には「古代宇宙飛行士説」をあの手この手で実証しようというもの*2。「古代宇宙飛行士説」とは、古代の遺跡が明らかに古代人の技術では建造不可能だとか、古代の壁画に空飛ぶ乗り物が描かれているとか、そういったことを根拠に、古代文明に宇宙人がやってきてその宇宙人が、古代の人々に遺跡の建築法を与えたり、場合によっては「神」としてあがめられた、とする説である。私もさまざまなオカルト説のなかでも一番魅かれる説だ。

 

3. UAPじゃなくてUFO

 政府が「UFO」映像を「UAP」映像として公開した件について憤っているところからも、エンジェルが信頼に足る人物だということが分かる。エンジェルは数年前にUFOの映像が公開されたことに言及し、そのときそれが「未確認飛行物体(Unidentified Flying Object)」ではなく、「未確認飛行・航空現象(UAP = Unidentified Aerial Phenomenon)」と呼ばれたことに憤慨する。これは実際の出来事で、数年前にペンタゴンが未確認の航空現象に関する映像を公開した*3。これが話題になったときにはUFO肯定派はついに時代が自分たちに追いついてきたと色めきだった。

 エンジェルによると、「UFO」を「UAP」と言い換えることによって、人々の関心をそぐ狙いがあるらしい。UFO肯定派らしい陰謀論的解釈だが、UAPという名称には、それが「物体(object)」であるかどうかを未決定にする慎重さがうかがえる。つまり、たしかに空中での「未確認の現象」はあるが、それが何らかの「物体」なのかどうか、さらにはUFO肯定派が想定するような宇宙人の乗り物(エイリアンクラフト)であるかどうかは未決定なのだ(UFOは未来人の乗り物だという説もある)。UFO肯定派としてはやはり「エイリアンクラフト」であってほしいが、そうは問屋が卸さない。

 ところで『NOPE』の話に戻ると、実は本作で登場するUFOは「エイリアンクラフト」でもない。むしろそれ自身が「エイリアン」あるいは「モンスター」である。北村紗衣さんが『NOPE』についてのレビュー記事で、「終盤は動物パニック映画」だと書いているが、まさにそうだった*4。あの乗り物からどんなエイリアンが出てくるんだろうというUFO肯定派の期待を裏切って、あの乗り物自身がエイリアンだった!というアイディア*5。これからはUFO生物説も出てくるかもしれない(もうありそうだが)。

 

4. 「マンティスマン」

 ジョーダン・ピール監督作品にはギャグなのかシリアスなのか分からないところがよく出てくるけど、本作品には撮影用の屋外カメラにカマキリが張り付いてUFOを撮影できないというシーンがある。屋外カメラの映像に急に出てくるカマキリの顔は一瞬、宇宙人をおもわせる。ここではおそらく敢えてカマキリを使っているようにおもわれる。実は、カマキリ型宇宙人(マンティスマン Mantis Man)の目撃情報はあって、UFO研究のなかでは爬虫類型宇宙人(レプティリアン)と同じくらい有名だ*6。おそらくカマキリの顔の造形がエイリアンっぽいことから「マンティスマン」ができたのだろうとおもうが、それゆえにカマキリの顔が急に出てきたとき、宇宙人だと勘違いすることは比較的自然なことのようにおもう。監督もそれを狙っていたんじゃないだろうか。

*1:以下を参照。

「オールド・タウン・ロード」をSFホラー映画にするとしたら?~『NOPE/ノープ』(ネタバレあり) - Commentarius Saevus

『NOPE/ノープ』に込められたテーマを徹底考察 逆転した“見られる者”と“見る者”の関係性|Real Sound|リアルサウンド 映画部

*2:

古代の宇宙人 - YouTube

*3:

www.bbc.com

*4:

「オールド・タウン・ロード」をSFホラー映画にするとしたら?~『NOPE/ノープ』(ネタバレあり) - Commentarius Saevus

*5:正確に言えば、本作に登場する円盤型モンスターが「地球外生命体」なのかどうかははっきりとは描かれていない。もしかしたら地球上で突如として発生したモンスターの可能性もある。

*6:ちなみに『ドラえもん のび太の創世日記』では、パラレルワールドの地球に昆虫型人類の一種としてマンティスマンが出てくる。しかも昆虫型宇宙人は南極の大きな洞窟から入れる地底の大空洞にいるという設定で、こうした地球空洞説もオカルト界隈では有名。

"Fuck the Police" :『アス』(ジョーダン・ピール監督、2019年)

 

1. あらすじ

 ジョーダン・ピール監督による『アス』は、前作『ゲット・アウト』と同様に、ホラー作品でありながら、独特なアイディアを用いて社会的な問題を盛り込んだ作品。

 話は1986年の夏から始まる。主役となるアデレード・ウィルソンは少女時代に、両親とともに海辺の遊園地に遊びにやってくる。アデレードは、そこで両親とはぐれ、少し離れたところにあるミラーハウスに入り込む。そのなかでアデレードは、鏡に映る自分と同じ自分以外の誰かの後ろ姿を目にする。そして時は経ち現在、アデレードルピタ・ニョンゴ)は、パートナーと子ども二人を持つ。しかし幸せそうなアデレード家族のもとに、ある日、彼女/彼らと同じ姿の赤い服をきたクローンがやってきて、彼女/彼らを襲撃する...

 

2. Anthem

 今まで見たホラー映画のなかで一番好きな曲は、ルチオ・フルチ監督『ビヨンド』のメインテーマ『Voci Dal Nulla』だった。この曲は、とても聴きやすい美しいメロディでありながら、どこか心を不安にさせて心拍数を速める。『アス』のメインテーマ『Anthem』も、同じように一回聴いたら忘れられない美しいメロディで、しかも畏れを抱かせる曲調になっている。序盤の1986年のシークエンス、アデレードが自分と瓜二つの自分以外の誰かと遭遇し戦慄したところで、その次のカットで白いウサギが映し出され、このメインテーマが流れる。このアバンタイトルで、何かとてつもない映画が始まってしまったと観客に予感させる。

 

以下、ネタバレあり

 

3. 豊かな「私たち」と周縁化された「彼女/彼ら」

 さんざん論じられているように、前作『ゲット・アウト』が複雑な人種差別問題を扱っていたのに対して、本作品は、幸せなウィルソン家と、地下で閉じ込められながら辛い生活を送っていたクローンたちとの対比のなかで貧困や格差を描いている。クローンたちは、「私たち」の豊かさのなかで犠牲になりしかも不可視化されてきた貧しさの象徴であり、「私たち」のあり得たかもしれない貧困の象徴でもある。実際、最終的に幸せな家族をもつアデレードは、実は、1986年の夏にミラーハウスにやってきたオリジナルのアデレードと入れ替わったクローンアデレードであり、幸せなクローンアデレードの家族を襲撃するアデレードはミラーハウスに迷い込まなければ幸せな人生を歩めていたのかもしれない(ただしこのことは最終版にようやくクローンアデレード自身によって思い出される)。

 そのため、襲撃するクローンたちにはどこかもの悲しさがある。例えばタイラー家を襲撃したクローンキティ・タイラーは、襲撃がひと段落すると、化粧台の前に座り幸せそうな顔で口紅を塗る。クローンキティにとって、化粧は地下の貧困生活ではできず、長年憧れていたことだったのだろう。その姿は、”おぞましい”襲撃者の背景にそれにいたるまでの苦しみを想起させる。

 

4. Fuck the Police

 前回の『ゲット・アウト』の記事ジョーダン・ピール監督が、よくあるホラー映画のラストのように警察を登場させることをせず、むしろ警察に対して批判的なまなざしを向けているということを指摘した。本作『アス』でもこの精神は引きつづいている。実際、今回もウィルソン家をレッド一家が襲う序盤で「911」に電話するが、「十数分かかる」と言われてしまい、しかも結局いつまで経ってもこなかった(それはウィルソン家以外のいたるところでも赤服のクローンたちの襲撃があったからなのだが)。そして極めつけは、本作一番の爆笑ポイント、スマートスピーカー「オフィリア」の大活躍シーンだ。

 ウィルソン家が襲撃から逃れているのと時を同じくして、ウィルソン家と親しい近所のタイラー家にも、同じようにタイラー家のクローンが襲撃していた。昼間はビーチで楽しくすごしていたタイラー家は無残にもころされてしまう。タイラー家の母親キティは最後の力を振り絞って、自分にとどめを刺そうとするクローンに”Stop”と懇願する。すると、クローンではなく近くのスマートスピーカー「オフィリア」が、それまで流していた曲を”stop”する。スマートスピーカーが使えることに気づいたキティは、オフィリアに最後の力を振り絞って、”call the police"と呼びかける。するとオフィリアはN.W.A.のクラシック『Fuck the Police』を流し始めてしまう。

 ホラー映画では、追ってから逃げようとするときに、車を見つけて逃げようとするも、エンジンがなかなかかからないといった、うまくいかないシーンがいくつかあるが、スマートスピーカーでそれをやるのは斬新だった。

 このシーンは、爆笑ポイントではあるけれども、やはりジョーダン・ピール監督自身の警察への批判的なまなざしが表れているように見える。ジョーダン・ピール監督は、警察が助けに来てくれないことを描くだけでなく、N.W.A.の口を借りて”Fuck the Police”と言ってのけるのだ(もちろんこれは前回の記事でも言ったとおり、黒人の人々に対する警察による不当な行為の長い歴史が背景にある)。