【読書感想文②】坪光生雄『受肉と交わり:チャールズ・テイラーの宗教論』(勁草書房、2022年)

 

0 はじめに

 本記事では坪光生雄『受肉と交わり:チャールズ・テイラーの宗教論』(勁草書房、2022年)を扱う。前回の記事では『受肉と交わり』(以下、本書)の全体の概観と第I部の要約を書いた。本記事はそのつづきです。今回も書いていたら長くなったので第II部(第四章、第五章、第六章)を扱って、そのつづきは次の記事に譲ります。

 前回の記事で1の冒頭で述べたように、第四章から第六章までの第II部は、第I部で『世俗の時代』の読解から取り出されたテイラーの核心的な諸思想を、別の著作の別の文脈に即して展開している。おおざっぱに言うと、第四章は認識論存在論に、第五章は政治学に、そして第六章は言語論にかかわる、と言うことができる。そのため、こうした分野に興味のある人にとっては他の章よりも比較的興味深く読むことができるだろう。ただし、どの議論においてもテイラーの宗教論あるいはキリスト教論が背後にある、ということは共通している。

1 各章の概要と感想

 前回の記事を参照。

 

1.1 第一章 「世俗化を語り直す――概念と歴史」

 前回の記事を参照。

 

1.2 第二章 今日の信仰の条件――多元主義のポリティクス

 前回の記事を参照。

 

1.3 第三章 受肉と交わり――「回心」のゆくえ

 前回の記事を参照。

 

1.4 第四章 認識論と宗教史――多元的で頑強な実在論

 第四章は、認識論や存在論という比較的哲学的な色合いの濃い議論になっている。そのためそうした分野に関心をもつ人にとっても興味深い箇所だろう。ここでは主にテイラーとヒューバート・ドレイファスとの共著『実在論を立て直す』が参照される(こちらは共著ではあるが、以下では簡略化のために基本的にはテイラーのみを主語とする)。とは言え、やはりここの議論もテイラーの宗教論とは不可分である*1

 テイラーが批判するのは主客二元論に基づくいわゆるデカルト”的二元論である。この二元論では、第一章で論じられていた「緩衝化された自己」と同様に、心と世界あるいは主観と客観とのあいだに明確な区別を打ち立てる。そして、心の外にある実在についての「知識」は、直接得られるのではなく、「観念」を通して媒介的に得られる(189)。それゆえこの二元論にもとづく認識論は「媒介説」(190)とも呼ばれる。

 これに対して、テイラーが主張するのは、「接触」(190)である。これによると、「知識は観念的表象という媒介にではなく、私たちが世界と直に接触することに存する」(190)とされる。この描像においては、私たちは世界から切り離された「どこでもないところからの眺め」から世界に対するのではなく、むしろつねにすでに「世界内存在」として世界のうちに存在することを「不可避の「背景」」とする(190)。

 心と世界との二元論を架橋しようとする点ではテイラーは『心と世界』のジョン・マクダウェル*2と同じ路線であると言えるかもしれない。しかしマクダウェルとテイラーは経験的な知識の形成にあたって、「概念能力」に重点を置くか、それとも「身体」に重点を置くかという点で異なる。つまりテイラーは、マクダウェルと違って、そもそも「概念的信念」を形成することができるためには「前概念的」な、世界に対する身体的なかかわりが必要だと考える(192)。例えば幼児の成長過程のように、「これらの学習はまず概念の助けを借りずに行われるが、なお世界と自己に関する能動的な「理解」を伴っている」(193)とされる。

 さらにテイラーはローティとも対比される。ローティもまた伝統的な哲学的二元論を批判していたからである。このときローティは「知識に対応する根拠が実在世界のうちに見出されるとする「基礎づけ主義」を廃棄して「整合主義(coherentism)」を支持する」(194)。ローティは、心から切り離された外的実在についての知識はその外的実在が根拠づけるというような主張に対して、この主張のもとにある二元論そのものを拒否して、ある信念は他の信念によってのみ正当化されるという整合主義をとる。こうしたローティの立場は「反実在論」(194)だとされる。

 反対にテイラーの立場は「実在論」、しかも「頑強な実在論」(195)である。そこにおいては、「私たちの知覚や行為は、まずは自らの身体の構造、そして周囲の世界の諸条件によって限界づけられている」(196)。この実在論はさらに「多元的」でもある。ここでの多元的実在論は、「科学的な記述が真である場合、それは実在的実在それ自体に対応するものであるという主張を積極的に認めるが、他方で科学的な記述が実在の唯一の本質を捉えているとは考えない」(201)。例えば、金という存在者は、科学的説明では原子番号79の物質として同定されるが、他方で古代エジプト人にとっては「聖なる輝きを放つ神聖な物体」(201)である。多元的実在論はこれらどちらも真なるものとして認めるという意味で「多元的」なのである。したがって「「多元的で頑強な実在論」にとっては、実在世界との接触を通じてその世界を開示する方式が複数ありうるということ、しかもそのいずれにも、実在との接触およびその開示として、それぞれにおいて真である可能性がある」(202)。この多元的で頑強な実在論は、のちにテイラー自身の宗教学に関する多元論にも通じてくるが、その際には「翻訳」という問題についてローティやデイヴィドソンに対するガダマーとの比較という文脈で再度明確にされており、こちらも非常に興味深い(第七章, bes. 332)。

 ところで、ある実在について多様な語りが可能であり、それらの語りはそれぞれが真でありうるという多元的で頑強な実在論の議論は、物自体への唯一真なる語りを許容しないという点では、物自体を不可知とする観念論にも似ているように見える。しかしこれがあくまで「実在論」であるのは、どの語りも、その語りがそれについて語っているところの実在そのものについての語りであるということを認めるという点にあるのだろう。というのは不可知論に立つならば、「実在そのものについての語り」ということは言えないだろうからである。テイラーの立場は、あくまで人が世界の中に存在し、そして身体をとおして実在に直接アクセスできるという点を重視しているのである。

 本文に話を戻すと、こうした多元的な実在論相対主義に陥るという懸念が生じうる。さらに、それぞれの語りに価値の優劣がないのであれば、科学史における「いくつかの不可逆的な進歩、よりよいものへの「交替」」(196)や、例えば「奴隷制の廃止や女性の参政権の確立、人権に関する合意の拡がり」(203)のような「不可逆的な政治的・道徳的達成」(203)についても語ることができなくなる。テイラーはどちらの不可逆性についても肯定する。後者について言えば*3、異なる語りがあるなかで、ある一定の価値観に収束するという可能性、ロールズの言葉で言えば「重なり合う合意」の可能性を担保する共通の地平は、「人間の身体の不変の構造」に求められる(203)。人間の身体の構造が不変であるがゆえに、「人間学的な諸見解の真正性に関しても一定の制限を課さざるをえない」(203)。やはりここでもテイラーは「身体」を重視する。

 「重なり合う合意」の可能性を「人間の身体の不変の構造」に求めることは興味深い。ただしもう少し具体的に、「人間の身体の不変の構造」からどのように例えば「人権」についての「重なり合う合意」が成立するのかについての道すじの可能性を示してほしいと感じた。また私の理解では、「人間の身体の不変の構造」もどのように語るのかで見方が変わってくるようにもおもわれる。例えばジェンダーの区別についても、スポーツの場面ではテストステロン値をもとにジェンダーが振り分けられてしまうが、そうした仕方には疑問がもたれる(この点については清水晶子『フェミニズムってなんですか』の読書感想文においても触れた)。ジェンダーに関するテイラー自身の考えについては著書では以下のように少しだけ触れられる。つまり、「テイラーは、性的アイデンティティをまったく融通無碍なものとして個人による決定自由に任せる道も、また他方ハンス・ウルス・フォン・バルタザールのような神学者とともに性差に関する永遠不変の定義にこだわる行き方も、同様に拒否する」(206)。そして「テイラーはいわば文化的変数と人間的定数のそれぞれに関する、より繊細な感覚の必要を訴える」(206)と言われる。ここで「文化的変数」と言われているのは、ジェンダーをどのように規定するのかという文化・社会的な構造の側面のことだろう。他方で「人間的定数」とはテイラーが言う「人間の身体の不変の構造」のことだろうか。そうだとすると、テイラーの主張は、ジェンダーに関する文化・社会的な側面と「人間の身体の不変の構造」の両方を重視せよ、と主張していることになるが、この主張は一方では矛盾しているようにもおもえるし、他方では当然のことのようにもおもえる。前者については、文化・社会的に身体理解が左右されることを認めながら、その身体構造が「不変」だということは矛盾するのではないか、ということである。後者について言えば、「人間の身体の不変の構造」を〈人間という類の身体が他の類に比べておおよそ共通していること〉と言いかえるならば、そのおおよその共通性と、おおよそ共通している身体を文化・社会的にどのように理解するのかということ、これら二つのことを同時に考えるということは、敢えて言う必要もなく当然のことのようにおもわれる。

 さて、本書の議論に戻ると、テイラーが「多元的で頑強な実在論」においても「身体」を重視することは、第三章で示された、テイラー自身の「受肉」の理解(前回の記事を参照)とも通じている。こうしてここにも、テイラー自身の宗教論が含まれているのである。

 

1.5 第五章 世俗主義の再定義――普遍性と翻訳をめぐる対話

 本章では主に、ハーバーマスやバトラーとの議論のなかでテイラー独自の「世俗主義」が扱われる。「世俗主義」とはフランス語では「ライシテ」と呼ばれるもので、それはきわめておおざっぱな言い方をすれば、一般的には公共的なもの(例えば国家)が特定の宗教の影響から独立しなければならないという考えのことである。本章ではまず、この世俗主義における「国家の中立性」を何からの中立性と捉えるかという点で、テイラーとハーバーマスが対比される。ただ、そうした世俗主義の社会において、さまざまに異なる立場が同じ権利をもって互いに対話するときに、互いの思想をどのように「翻訳」するのかという問題が生じる。バトラーはこの「翻訳」の問題をハーバーマスとテイラーに対して投げかける。この文脈で本章では、テイラーが「翻訳」をどのように理解しているのかが明らかにされる。

 まずハーバーマスとの対話について。テイラーもハーバマスも、宗教が近代化のなかで公共的領域から私的領域に移り主張力を失っていくという支配的な物語に対して、現在においても宗教について公共的な議論における発話者としての重要性を認めるという点で共通する。しかしハーバマスとテイラーには決定的な違いもある。

 一方でハーバマスは、あくまで「「公共的」な、つまり一般的に共有された言語で表現されうる」(218)、「世俗的な理性」(218)を優位に置くハーバーマスからすると「宗教的信仰やその真理は、[...]どんな人にでもわかるという種類のものではない」(218)。それゆえ政治的公共圏で宗教が何がしかを語るにしても、「非公式的な政治的公共圏で語られる宗教的な言語は、公式の政治制度においては誰もが理解できる「世俗的」な言語へと翻訳されねばならない」(219)とされる。つまりハーバーマスにとって、正しさの基準は世俗的な理性の方にあって、宗教に発言権を認めるにしても、宗教は世俗的な理性にとって分かることばで語る必要がある。こうしてみるとハーバーマス的な世俗主義は、「宗教」を標的にし、その宗教からの公共的なものの中立性を担保したうえで、世俗的な言語に翻訳するかぎりにおいて公共圏への宗教の参入を認めるものである。したがって「ハーバーマスの「翻訳」は、共同体的党派性からの離脱と、より包括的な理性性=公共的しざへの移行として要請されている」(222)。

 他方でテイラーの世俗主義は、宗教だけでなく非宗教的なものに対しても向けられている。つまりテイラーの世俗主義は「宗教と非宗教のどちらにも不当に肩入れすることがないよう国家に中立性を求める」(214)。それゆえテイラーは「宗教的言語がハーバーマスの言う「世俗的」な言語に言い直されなくてはならないという必要を認めない」(219)。著書で引き合いに出されている例を借りれば、キングの演説のように「深く宗教的な色合いを帯びた言説でも、多様な聴衆にとって広く説得的なもの」であることはありうるし、他方で「カントに依拠した「世俗的」な主張であっても、人によってはまったく理解されない可能性がある」(219)。テイラーにとって「「世俗の時代」とは、何であれ多様に可能となった諸立場が互いの核心を弱める立場である」(215)。この諸立場には宗教的なものだけでなく非宗教的なものも含まれる。それゆえハーバーマスのように非宗教的な世俗的理性の言語に頼ることはできないのである。しかしこうしてそれぞれの立場を橋渡しするはずの基準となる言語がなくなり、それぞれの立場がそれぞれ特有の言語で語るという場合、それらの立場はどのようにして「会話」をすることが可能なのだろうか。

 この点についてのテイラーの回答は、バトラーの問題提起に対するテイラーの応答という仕方で示される。「共通性」よりも「差異」を強調するバトラーにとって、ハーバーマスもテイラーも「本来解消不可能な差異をも消去できる」(226)と想定しているようにおもわれた。そのなかでバトラーが提起するのは、そもそもそうした「翻訳」が可能なのかどうか、ということである。テイラーは、ハーバーマスのようにより上位の中立的普遍性(世俗的な理性)に訴えることはせずに、「翻訳」を構想する。テイラーは「翻訳」つまり「トランスレーション」の古い意味「司教の教区移動」を引き合いに出すことで、「翻訳」という語を「境界を飛び越えること」として理解する(227)。テイラーは、それぞれの言説が固有の差異を帯びながら、そこに様々に敷かれた教会を飛び越えていくこととして「翻訳」を理解し、そしてこれを「普遍化」と理解する(229)。つまりテイラーにとっての普遍性とは、多様なものどもに共通する何らかの性質ではなく、「境界横断的な一致」(229)のことである。

 ここではテイラーの「翻訳」の構想や、その特有の「普遍性」理解が明らかにされた。ただし、それがより具体的にどのようになされるのか、ということについてはまだ議論が不十分であるように見える。この点については、のちの第七章においてガダマーの「地平の融合」の議論をとおしてより詳細に議論されることになる。

 

1.6 第六章 象りと共鳴――言語の神秘について

 テイラーの思想は、「物語」や「会話」そして「翻訳」など、これまでの議論のなかで出てきたキーワードを見てみても、言語の問題が深くかかわっているようにおもわれる。実際テイラーは独自の言語論をもっている。本章では、こうしたテイラー特有の言語論が話題になる。

 テイラーによると、近代以降の言語理論は二つの立場の対抗として描かれる。一方のものは「はめ込み理論」と呼ばれる*4。この理論では「言語は言語に対して独立的な対象に関する記述や、究極的には人間の生存という目的にとって有用な道具として説明される」(234)。つまり言語に先立って、すでに出来上がった対象や、人間にとっての目的があり、言語はその対象を人間が適切に指示するための道具として、あるいは人間の生存目的にとって有用な道具として理解される。これに対して他方のものは「構成理論」と呼ばれる*5。この理論では「人間的生にとっての目的や有意味性は言語とは独立にすでにそこにあるものではなく、むしろ言語がそれらの枠組みを構成する」(235)とされる。テイラーが強調したいのは、言語が「人間的生や活動の全般的文脈を創出する」(238)という特性である。

 ただし、テイラーははめ込み理論に代表される「指示的-道具的な言語理論」を排除するわけではない。テイラーは「人間的意味」(「メタ生物学的意味」とも呼ばれる)と「生命的意味」とを区別したうえで(239)、はめ込み理論は後者を捉えるには適切だが、前者を捉えることまではできないという点で、はめ込み理論を批判する。「人間的意味」とは、「「生存」という目的に先決定されない、それゆえ前言語的動物との連続性において把握することの困難な、人間の言語的次元に固有の意味」(239)のことだとされる。著者が例に挙げるのは「愛」である。「愛」をもし「生命的意味」で理解するならば、「生殖ないし種の保存という自然的-客観的目的」に還元されてしまう(239)。しかし「そのような説明は何か重要なものを捉え損ねているという感覚がすぐに生じる」(239)。「愛」のようなものは、「生命的意味」ではなく「人間的意味」または「メタ生物学的意味」の領域のものとして捉える必要があるのである。もしはめ込み理論のように「生命的意味」にのみ還元してしまうならば、「愛」の意味が捉えそこなわれてしまう、というのがテイラーの問題意識である。実際テイラーは、「自然科学など、対象のより正確な記述が問題となる「事実的なもの」の領域」では、「指示的-道具的な言語理論」を認め、他方で「道徳や美学の領域に属する「規範的」な意味」については、構成理論をとる(251-252)。

 ところでこうした言語の構成理論の観点から、言語の重要性を説くテイラーの主張は、第四章で展開された身体を基軸とした多元的で頑強な実在論と折り合いが悪いようにおもえる。この点について著者は説明を与えている。著者によると、テイラーにとって「人間的な意味と身体とは密接不離の関係にある」(240)。テイラーの言う人間的意味を表現する言語は、狭い意味ではなく、例えば「絵画・音楽・舞踊等を含む諸々の芸術表現によって、そしてまた色々な価値や世界観を体現する日常的な「実行=実演(enactment)」(240)も含む。このように人間的意味に関して、言語と身体とは対立しない。

 言語が身体と対立しないとすると、両者は具体的にどのような関係しあっているのだろうか。この点について私は著書を一読するだけでは理解できなかったが、少なくともどちらか一方が他方に還元されるわけではないようである。一方で「テイラーはたとえば身体的諸条件が言語の「起源」である等と主張したのではない」(250)。テイラーはあくまでも言語の構成的な側面を認める。ただし他方で言語は「世界そのものを無から創造するのではない」(250)。やはりあくまで人間が世界の中に存在し身体を通して実在と接触するという「多元的で頑強な実在論」において示された条件は変わらない。言語がなすことができるのは、そうした条件のうえで「ものごとを明瞭にする力によって、世界が私たちに関係する在り方に変化を生じさせる」(250)ということである。これは何かの知識によっていわば〈解像度が上がる〉ということだけではないだろう。それだけでなく例えば著書が第三章(bes. 163 ff.)で分析しているホプキンスの詩をとおして、自然の個物の営みのなかに神の御業を感じとることで、世界との関わり方が変化するということもある(テイラーの言語論における詩の重要性については本章第4節でも主題になる)。

 テイラーが詩を重視することとの関連で興味深いと感じたのは、「「文字通り」の意味をもつ理論的言語と、詩歌や物語のような文彩を凝らした言語との一般的な区別において、前者が後者に優越するという見方」(240-241)への批判である。著者は「哲学者たちがいわば綾のある言葉に対して差し向ける敵意は、こうした理論的なもののヘゲモニーを反映している」(241)と言うが、私自身の感覚で言えばまさにその通りだとおもう。とくに最近では哲学研究においても「明晰さ」が当然のように求められ、何か深淵な表現や詩的な言葉遣いは忌避される。一読では難解であるような古典的なテクストについての哲学史研究もまた、宗教の言葉を世俗的な理性の言葉に翻訳するかのように(第五章)、深遠な言葉を「明晰な」言葉や具体例に落とし込むように矯正される。私自身アカデミックにいたときには自らをそのように矯正したし、他の論文にもそうあってほしいと期待し、またそれを促すような意見を言うこともあった。しかし本書を読むと、そうした「理論的言語」では取りこぼしてしまう領域はたしかにあるのだろうという感覚になっている。このあたりの問題は引き続き考えていきたい問題である。

 さて本文に戻ると、ここでは前章に引き続きやはりまた「翻訳」が問題となる。事実的なものの領域であれば、著者が挙げる例のように、例えば〈イヌ〉を「犬」や「dog」や「Hund」と別々の言葉で表現したところで、それらのあいだの翻訳は可能だろう(272)。しかし著者自身が指摘するように、テイラーが重視する「人間的意味」の次元、しかもそれを表現する芸術作品については、それぞれの作品のあいだで完全な翻訳は不可能だろう(272)。しかしだからといってテイラーは「文化的-道徳的な相対主義者」(272)ではない。本章ではこの「翻訳」の問題については暗示的なことが言われているだけのように見えるが、そのなかでテイラーからの引用のなかにハンス・ゲオルグ・ガダマーの「地平の融合」という概念が登場する(273)。テイラーが「文化的-道徳的な相対主義者」ではないとするならば、異なる立場のあいだで翻訳が可能であること、またさまざまな言説のなかで妥当性に優劣がありうること、これら二つのことが示される必要があるだろう。これについては第七章で「解釈学」を手掛かりにより詳細に示されることになる。

 本章はテイラーの言語論を詳細に扱っており、当然ながらこの概要だけでは汲み尽くせない豊富な議論が展開されている。私にとって本章は本書のなかで最も難解だった。それは「詩」や「象徴」「メタファー」などに関する議論が、「理論的なもののヘゲモニー」に準じてきた私にとって難解に感じられたということかもしれない。今のところ言語化できる疑問点を取り出してみるならば以下の点が挙げられる。つまり、言語の構成的な側面はどれほどの射程をもつのかという点である。先に見たように、テイラーは意味を「生命的意味」と「人間的意味」に区別して、後者を取りこぼさないためにということで言語の構成的な側面を強調していた。しかし他方で、「メタファー」(これも言語の構成的な側面を担う表現方法)については、「文字通りの意味として介されるべき厳密な記述語もまた、その由来においては部分的にメタファーに依存している場合がある」あるいは「言語の記述的使用は全体としての言語に依存しており、メタファーによる象りはその全体としての言語の重要な一次元を構成している」と言われる(243)。そうだとすれば、言語の構成的な側面は、いわゆる「理論的言語」(「文字通りの意味として介されるべき厳密な記述語」)を可能にするということになる。この点については具体的にどういうことなのかがもっと知りたいと感じた。

 とはいえ本章は多分に示唆的な議論を含んでおり、分からないなりにも興味深く読めた。ぜひ実際に手にとって読んでほしい。

 

第III部以降の議論は別の記事につづく。

*1:実際、本章の議論は、タラル・アサドによってテイラーに対してなされた批判、つまりテイラーの『世俗の時代』は「宗教における身体的・感覚的なものの意義に対して十分な関心を払っていない」(188)という批判に対する、著者なりの応答として企図されている。

*2:ジョン・マクダウェル『心と世界』神崎繁他訳, 勁草書房, 2012年.

*3:科学史におけるよりよいものへの「交替」は「有用性」(196)という観点から説明される。つまり科学史におけるそれぞれの発見は、有用性という観点から私たちの日常把握を改善することによって、もはやそれ以前に立ち戻ることができない知識となる。

*4:この理論の代表者としてはホッブズ、ロック、コンディヤック(HLC)が挙げられる(235)

*5:この理論の代表者としてはヘルダー、ハーマン、フンボルト(HHH)の三者が挙げられる(235)