依存的な二人の男のロマンティックな関係:『ザ・マスター』(P・T・アンダーソン監督)

1. 『ザ・マスター』の概要

 本作はよく言われているところでは、サイエントロジーという実在の新興宗教をモデルに、その宗教的指導者ランカスター(フィリップ・シーモア・ホフマン)と、復員兵のフレディ(ホアキン・フェニックス)との関係を中心に描いている。こうした前情報から、私は新興宗教の光と闇のようなものが描かれていることを期待して見始めた。たしかに映画のなかでは「プロセシング」といういわゆる「退行催眠」などの宗教的実践が描かれており、その問答はとても興味深いものだった。しかし実際に見てみると、そうした宗教的実践よりも、ランカスターとフレディとのロマンティックな関係を中心に描いているようにおもえる。

 本作の見どころは何と言っても、ランカスター役のフィリップ・シーモア・ホフマンとフレディ役のホアキン・フェニックスの演技。ホアキン・フェニックスはセリフ回しだけでなく、歩き方から腰の曲がり方、そして表情といった身体全体を使った演技で、フレディという一癖も二癖もある人間に実在感を持たせていた。また、フィリップ・シーモア・ホフマンも、多くのひとから愛される宗教的指導者の面と時に激昂し時にアルコールに依存してしまう弱い面の二つを兼ね備える人物を演じきっている。

 

2. あらすじ

 本作の舞台は1950年代。第二次世界大戦から復員したフレディはデパートでカメラマンをしたり、農場で働いたりするも、その都度問題を起こし定職につけない。そんななか船上で陽気なパーティが開かれているところに出くわし、フレディはその船に入り込む。朝起きるとそこは船のベッド。船の関係者とおもわれる女性に連れていかれた先にいるのは、ヒゲを蓄えた恰幅のよい男性。この男性はフレディが自作する酒に興味を持ったらしく、それを作ることを条件に船にいさせてもらう。その男性はある新興宗教「コーズ」の「マスター」であるランカスターだった。この船はランカスターの娘の結婚式のために借りられたものだった。フレディはこの船に同乗するなかで、ランカスターによる宗教的実践を目の当たりにしたり、実際に自分でもそれを体験する。偶然船に入り込んだことをきっかけにフレディは、ランカスターの一家と生活をともにするようになり、ランカスターとの関係を徐々に深めていく。しかしフレディは、ランカスターとの信頼関係は築けても、ランカスターが説く宗教的実践を身に着けて、心の安定を獲得することはなかなかできない。二人の関係はどうなるのか...というのがあらすじ。

 

3. 依存的な二人の男のロマンティックな関係(※ネタバレあり)

 先に述べたように本作は、フレディとランカスターという二人の男のロマンティックな関係を描いている。フレディはさまざまな問題を起こすため、ランカスター以外の家族からは煙たがられている。それでもマスターだけはフレディを見放さない。また、フレディはマスターの宗教的実践もうまく習得できない。たしかにいくつか修行するなかで上達したこともあったが、木の壁と窓のあいだを目をつむって行き来してそれらを手で触れて別のものをイメージするという修行は最後まで習得できなかった。それでもマスターはフレディを抱きしめて受け止める。ランカスターは、明るく話もおもしろく笑顔も素敵で周りのひとから愛されるチャーミングな人間である。その一方で、自分の理論を否定されたり、されていると勘繰ったりすると激昂したり、また自分の本を誰もいない岩場に隠して何か疑心暗鬼になっている様もあったり、さらにはアルコールやたばこに依存しているなど、別の面も抱えている。ところで映画の序盤のほうでランカスターの説教音声を聞くシーンがあるが、そこでは「人間は動物でないこと」や「衝動や感情をコントロールできること」など、人間が”理性的”な精神的存在であることを称揚することが説かれている。しかしフレディはその正反対の人間であり、またランカスター自身もいわゆる”動物的”な面を持ち合わせている。

 ランカスターはフレディのなかに自分が克服できていない面を見てとり、それゆえフレディを見放すことは自分自身の一部を克服できないまま放置することになるからこそ、フレディを見放さない。しかしランカスターがフレディを見放さない理由はそれだけだろうか。私にはランカスターがフレディに対してもっとロマンティックな感情を抱いているように見えた。このことにはランカスターの配偶者であるペギー(エイミー・アダムス)もおそらく気づいている。ペギーはランカスターをおそらく陰で支えている有能な人物で、ランカスターが懐疑論者と口論になったあとに、ランカスターに対して「攻撃しなければ私たちの場を支配(dominate)できなくなる」と忠告する。そのペギーが、洗面所にいるランカスターのところに行って浮気をしないように釘を刺しているように見えるシーンがある。しかしよくよく聞いているとそれはランカスターがペギー以外の女性と浮気しないように言っているのではなく、フレディに対して浮気心を起こさないように忠告しているシーンだと分かる。そしてペギーはその忠告の最中、ランカスターの下腹部をしごき、ランカスターの性的衝動を「支配」する。もしペギーがランカスターに対してフレディとたんにこれ以上友情関係を結ばないように忠告するだけであれば、ペギーは浮気をとがめるような口ぶりで忠告することも、ランカスターの性的衝動を支配することも必要なかったはずである。しかしペギーはフレディとランカスターとのあいだに友情関係を越えたロマンティックな関係を見ており、そのためにそうせざるをえなかった。最後に、フレディがイギリス支部にいるランカスターに会いに行った際に同じ部屋にペギーもいた。これは三者の三角関係を示しているようであり、緊張感のある場面である。そしてペギーは「自分を治す気がない」フレディを見限って部屋を後にする。こう見ると、実のところ”理性的”な精神を称揚する教義を説くマスター自身よりも、ペギーのほうがその教義を実践している。他方でフレディもランカスターも”非理性的”な面をどうしようもなく抱えており、それゆえにランカスターは最後までフレディに優しいまなざしを送る。

 フレディとランカスターとのあいだのロマンティックな関係は最後のシーンでより明確になっているようにおもわれる。フレディとランカスターは最後にイギリスの支部で会ったあとにまた決別する。そしてフレディはどこかの飲み屋へ行きそこで会った行きずりの女性とベッドをともにする。その女性の比較的ふくよかな体型が、ランカスターのそれと同じように見えるのは私だけだろうか。フレディはその女性とセックスをしながら、自分が最初にランカスターにしてもらった簡易プロセシングを行う。まばたきせずにじっと見つめ合いながら、自分が普段隠している部分をさらけだす最初のプロセシングを観たとき、きわめてロマンティックでエロティックだとおもったが、最後のこのシーンでプロセシングとセックスが明確に重ね合わされる。ランカスター自身ではなく別の女性に対してであるとは言え、ここで師と弟子という関係が反転し、主従関係ではないロマンティックな関係が結ばれる。

 フレディとランカスターがお互いへのロマンティックな感情に気づいていたのか、無意識だったのかは定かではない。しかし気づいていたとしても、1950年代という時代で考えると、その感情を口に出して表現することはきわめて困難だったであろう。本作品は、宗教的指導者とその不出来な弟子とのロマンティックな関係を描いた作品である。