"I'm TS mother fuckin' A." :『ゲット・アウト』(ジョーダン・ピール監督、2017年)

1. はじめに

 昨日から『NOPE』の公開が始まった。とても楽しみだけれど、観る前にこれまでのジョーダン・ピール監督作品を見返すことにした。

 『ゲット・アウト』は2017年に公開された「ホラー」映画。おおざっぱに言ってしまえば、白人女性(ローズ)を恋人に持つ黒人男性(クリス)がその恋人の実家に行き、何らかの恐ろしい目にあうという作品。映画館で観た当時は、序盤からの不気味で不穏な空気と、謎が解けたときの衝撃、そこからラストにいたるまでのハラハラに釘付けだった。

 

 

以下、ネタバレあり。

2. 「沈んだ地」のメタファー

 本作品は、よく言われているように本作品は、よく見られる単純な人種差別を描いてはいない*1。ローズとその家族やそのお仲間の白人たちは皆(ローズの弟はどこか攻撃的だが)、一見するといわゆる「リベラル」。大統領選ではオバマを支持しており、クリスにもフレンドリー。しかし観客は、どこか居心地の悪さをクリスとともに共有する。というのは彼らは、黒人に対してフレンドリーだが、その際彼らが褒めるのは、「黒人」とくくられる人々に表象される身体能力やクールさだからである。ネガティブなまなざしを向けるか、ポジティブなまなざしを向けるかの違いはあれど、個人を様々な面を持つその個人としてではなく、いわゆる「人種」とその「人種」に付与される何らかの表象をとおして見るという点では、彼らは「レイシスト」とほとんどかわりがない。

 私も、例えば自分のことをよく知らないし知らせてもいない相手から、「真面目で良い人だ」とポジティブな評価をされるととても居心地が悪く感じる(もちろん『ゲット・アウト』で描かれる問題はこんなことよりももっと構造的な差別がかかわる深刻な問題)。そのようなポジティブな評価は、私をそのような「真面目で良い人」として振る舞うように強制する呪詛のようにも聞こえる。

 ところで『ゲット・アウト』における重要なアイディアは、白人が、ある外科的な手術を通して、意識を黒人の身体に移して、その黒人を乗っ取るというものだ。乗っ取られた側は、意識を完全に失うわけではなく、「沈んだ地」と呼ばれる深層意識に取り残されてしまう。そこでは意識は保たれたままで、別の意識に乗っ取られた自分の身体をテレビの画面から見るかのように見るという地獄だ。これはとても突拍子もないアイディアで、それだけを聞くとツッコミを入れたくなってしまう。しかしあるメタファーのようにもおもえる。私たちは他人から期待される役割を自分の身体で演じながら、それをメタ的に見るということはないだろうか。私は当事者ではないから実際には分からないのだけれども、例えば黒人は「黒人」として期待された身体を、あるいは女性は「女性」として期待された身体を演じ、その自分をメタ的に見ながら自分の意図とは別の何かに動かされている感覚を持ったりすることはないのだろうか。そのとき人は、自分以外の「意識」に身体を支配されて、「沈んだ地」にいる感覚を持つのではないだろうか。

 

3. 一般的なホラー映画のラストに対する批判的なラスト

 前々からホラー映画を見ておもうことがあった。ホラー映画でよく見るのは、世間から切り離された土地や状況下で、主役(たち)が自分(たち)の力で危機的状況を切り抜けて、最終的に警察が現われ保護されて一件落着というもの。主役も観客も警察の姿を見て安堵する。しかしこれを見ていつも、警察はそこまで信頼にたる存在なのだろうか、とおもってしまう。もちろん多くの警察官は市民を守るために行動しているのだろうけれども、警察権力は必ずしも市民にとって安心できる存在ではない。ホラー映画のよくあるラストは、警察権力の「恐ろしさ」を隠蔽しているように見える。

 しかし『ゲット・アウト』は違う。『ゲット・アウト』では序盤に、ローズが運転する自動車が鹿をひいてしまった際に、クリスが警察を呼んで白人警察官がやってくるシーンがある。しかしただ助手席にいただけのクリスは、その警察官から身分証を提示するように要求される。ここで警察官と黒人とのあいだの緊張関係が描かれる。実際、アメリカの社会問題として、警察官が黒人たちを不当に扱い、最悪の場合死にいたるということもある。『ゲット・アウト』は多くのホラー映画と同様に、危機的状況から脱出したクリスの前に最終的にパトカーが止まる。しかしそのパトカーはクリスと観客に安堵をもたらすものではなく、不安をかきたてる。せっかく危機的状況から脱したにもかかわらず、次は警察権力によってクリスが不当に逮捕されるのではないか、そうしたことを予期させる。

 しかしそこに現われるのは序盤で現われたような白人警察官ではなく、クリスの親友ロッド!ロッドはクリスの状況を案じて警察署にもかけこむが相手にされずに結局自ら助けにきたのだ。ロッドは警察官ではなくTSA(アメリカ合衆国運輸保安庁)の職員だから、パトカー的な警備用車両に乗れるのかどうかは知らないけれども、すごく頼りがいのある友人だ。ロッドはクリスにこう言う、”I'm TS mother fuckin' A!”。これからのホラー映画のラストはpoliceではなくTSAで決まりだ。

*1:例えばこちらの記事を参照。

依存的な二人の男のロマンティックな関係:『ザ・マスター』(P・T・アンダーソン監督)

1. 『ザ・マスター』の概要

 本作はよく言われているところでは、サイエントロジーという実在の新興宗教をモデルに、その宗教的指導者ランカスター(フィリップ・シーモア・ホフマン)と、復員兵のフレディ(ホアキン・フェニックス)との関係を中心に描いている。こうした前情報から、私は新興宗教の光と闇のようなものが描かれていることを期待して見始めた。たしかに映画のなかでは「プロセシング」といういわゆる「退行催眠」などの宗教的実践が描かれており、その問答はとても興味深いものだった。しかし実際に見てみると、そうした宗教的実践よりも、ランカスターとフレディとのロマンティックな関係を中心に描いているようにおもえる。

 本作の見どころは何と言っても、ランカスター役のフィリップ・シーモア・ホフマンとフレディ役のホアキン・フェニックスの演技。ホアキン・フェニックスはセリフ回しだけでなく、歩き方から腰の曲がり方、そして表情といった身体全体を使った演技で、フレディという一癖も二癖もある人間に実在感を持たせていた。また、フィリップ・シーモア・ホフマンも、多くのひとから愛される宗教的指導者の面と時に激昂し時にアルコールに依存してしまう弱い面の二つを兼ね備える人物を演じきっている。

 

2. あらすじ

 本作の舞台は1950年代。第二次世界大戦から復員したフレディはデパートでカメラマンをしたり、農場で働いたりするも、その都度問題を起こし定職につけない。そんななか船上で陽気なパーティが開かれているところに出くわし、フレディはその船に入り込む。朝起きるとそこは船のベッド。船の関係者とおもわれる女性に連れていかれた先にいるのは、ヒゲを蓄えた恰幅のよい男性。この男性はフレディが自作する酒に興味を持ったらしく、それを作ることを条件に船にいさせてもらう。その男性はある新興宗教「コーズ」の「マスター」であるランカスターだった。この船はランカスターの娘の結婚式のために借りられたものだった。フレディはこの船に同乗するなかで、ランカスターによる宗教的実践を目の当たりにしたり、実際に自分でもそれを体験する。偶然船に入り込んだことをきっかけにフレディは、ランカスターの一家と生活をともにするようになり、ランカスターとの関係を徐々に深めていく。しかしフレディは、ランカスターとの信頼関係は築けても、ランカスターが説く宗教的実践を身に着けて、心の安定を獲得することはなかなかできない。二人の関係はどうなるのか...というのがあらすじ。

 

3. 依存的な二人の男のロマンティックな関係(※ネタバレあり)

 先に述べたように本作は、フレディとランカスターという二人の男のロマンティックな関係を描いている。フレディはさまざまな問題を起こすため、ランカスター以外の家族からは煙たがられている。それでもマスターだけはフレディを見放さない。また、フレディはマスターの宗教的実践もうまく習得できない。たしかにいくつか修行するなかで上達したこともあったが、木の壁と窓のあいだを目をつむって行き来してそれらを手で触れて別のものをイメージするという修行は最後まで習得できなかった。それでもマスターはフレディを抱きしめて受け止める。ランカスターは、明るく話もおもしろく笑顔も素敵で周りのひとから愛されるチャーミングな人間である。その一方で、自分の理論を否定されたり、されていると勘繰ったりすると激昂したり、また自分の本を誰もいない岩場に隠して何か疑心暗鬼になっている様もあったり、さらにはアルコールやたばこに依存しているなど、別の面も抱えている。ところで映画の序盤のほうでランカスターの説教音声を聞くシーンがあるが、そこでは「人間は動物でないこと」や「衝動や感情をコントロールできること」など、人間が”理性的”な精神的存在であることを称揚することが説かれている。しかしフレディはその正反対の人間であり、またランカスター自身もいわゆる”動物的”な面を持ち合わせている。

 ランカスターはフレディのなかに自分が克服できていない面を見てとり、それゆえフレディを見放すことは自分自身の一部を克服できないまま放置することになるからこそ、フレディを見放さない。しかしランカスターがフレディを見放さない理由はそれだけだろうか。私にはランカスターがフレディに対してもっとロマンティックな感情を抱いているように見えた。このことにはランカスターの配偶者であるペギー(エイミー・アダムス)もおそらく気づいている。ペギーはランカスターをおそらく陰で支えている有能な人物で、ランカスターが懐疑論者と口論になったあとに、ランカスターに対して「攻撃しなければ私たちの場を支配(dominate)できなくなる」と忠告する。そのペギーが、洗面所にいるランカスターのところに行って浮気をしないように釘を刺しているように見えるシーンがある。しかしよくよく聞いているとそれはランカスターがペギー以外の女性と浮気しないように言っているのではなく、フレディに対して浮気心を起こさないように忠告しているシーンだと分かる。そしてペギーはその忠告の最中、ランカスターの下腹部をしごき、ランカスターの性的衝動を「支配」する。もしペギーがランカスターに対してフレディとたんにこれ以上友情関係を結ばないように忠告するだけであれば、ペギーは浮気をとがめるような口ぶりで忠告することも、ランカスターの性的衝動を支配することも必要なかったはずである。しかしペギーはフレディとランカスターとのあいだに友情関係を越えたロマンティックな関係を見ており、そのためにそうせざるをえなかった。最後に、フレディがイギリス支部にいるランカスターに会いに行った際に同じ部屋にペギーもいた。これは三者の三角関係を示しているようであり、緊張感のある場面である。そしてペギーは「自分を治す気がない」フレディを見限って部屋を後にする。こう見ると、実のところ”理性的”な精神を称揚する教義を説くマスター自身よりも、ペギーのほうがその教義を実践している。他方でフレディもランカスターも”非理性的”な面をどうしようもなく抱えており、それゆえにランカスターは最後までフレディに優しいまなざしを送る。

 フレディとランカスターとのあいだのロマンティックな関係は最後のシーンでより明確になっているようにおもわれる。フレディとランカスターは最後にイギリスの支部で会ったあとにまた決別する。そしてフレディはどこかの飲み屋へ行きそこで会った行きずりの女性とベッドをともにする。その女性の比較的ふくよかな体型が、ランカスターのそれと同じように見えるのは私だけだろうか。フレディはその女性とセックスをしながら、自分が最初にランカスターにしてもらった簡易プロセシングを行う。まばたきせずにじっと見つめ合いながら、自分が普段隠している部分をさらけだす最初のプロセシングを観たとき、きわめてロマンティックでエロティックだとおもったが、最後のこのシーンでプロセシングとセックスが明確に重ね合わされる。ランカスター自身ではなく別の女性に対してであるとは言え、ここで師と弟子という関係が反転し、主従関係ではないロマンティックな関係が結ばれる。

 フレディとランカスターがお互いへのロマンティックな感情に気づいていたのか、無意識だったのかは定かではない。しかし気づいていたとしても、1950年代という時代で考えると、その感情を口に出して表現することはきわめて困難だったであろう。本作品は、宗教的指導者とその不出来な弟子とのロマンティックな関係を描いた作品である。

【読書感想文】北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か:不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』

 これまで批評理論に関する本で読んだことのあるものは、廣野由美子『批評理論入門:『フランケンシュタイン』解剖講義』だけ。この本は、さまざまな小説技法と批評理論を紹介しつつ、それらを実際に、メアリー・シェリーの古典的名作『フランケンシュタイン』の読解のなかで具体的に示していくという、とても「真面目」な良書だった。これに対して、本書(『お砂糖~』)はサブタイトルに「不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」とあるように、古典的名作だけでなくバーレスクやハリウッド映画を対象にして軽妙な語り口で、具体的にフェミニスト批評を実践していく「不真面目」な良書だった*1

 本書は、具体的な批評をとおして、批評の楽しさを教えてくれる。本書は「フェミニスト批評入門」とあるように、「フェミニスト」的な観点から批評している(また本書にはクィア批評も含まれる)。また、「フェミニスト批評」では「男らしさ」も問題にもなるため、さまざまな文学や映画などで「男らしさ」の問題も浮き彫りにされる。

 本書の数あるおもしろいところのうちの一つは、例えばウェブ上で話題となったテーマを皮切りに、それらのテーマを過去の作品のなかに見出していくところ。例えば、2015年くらいから流行っている「キモくて金のないおっさん」(「弱者男性」の類義語?)が実は、昔から古典的作品をとおして様々に語られてきたことが浮き彫りにされる(60 ff.)。また少し古い言葉かもしれないが「ツンデレ」についても、シェイクスピアの『十二夜』を題材に、そのなかでどのように「ツンデレ」が描かれているのかが示される(115 ff.)。フェミニズムが扱う論点が現代的であるから(あるいは長いことマジョリティから無視されてきたから)か、本書が扱うテーマはどれも現代と地続きでおもしろい。

 また本書では、著者自身の個人的なエピソードも書かれていて、そこに勝手ながら親近感がわいた。例えば本書の一節目にあたる「さよなら、マギー:内なるマーガレット・サッチャーと戦うために」では、著者のなかにある「内なるマギー」(22)について語られる。マギーとはマーガレット・サッチャーのことで、サッチャーは「帝国主義、差別、弱者の搾取といったものを象徴する存在と見なされており、フェミニズムセクシュアルマイノリティの権利にとっては敵」(23」と見なされている。著者のなかの「内なるマギー」は、「私〔著者〕の心の中にある男社会でバカにされず立派な人間として認められたいという野心を象徴」(25)する。なぜ著者自身のなかに「内なるマギー」がいるかというと、著者の分析によれば、著者自身とマギーとの境遇が似ている点にあるよう。また『嵐が丘』を著者が高校生のときに、同小説を「エロティック」なものと読んでいたという話(またそれが実は「腐女子」または「スラッシャー」的読解によるものだったという分析)もおもしろい(35 ff.)。このようにところどころで著者自身のエピソードが織り交ぜられるので、批評を読んでいながら質のいいエッセイも読んでいるようで、楽しさが尽きない。

 「批評」という営為についての著者自身の捉え方も、とてもいいとおもった。著者は「批評」という営為を「探偵」になぞらえて、次のように言う。「批評のいいところは、完全に解決されたケースはないということです。[...]一見、完璧に筋が通っているように見える説得力ある読みでも、よく考えるとさらに面白い読みが提示できる可能性があります。」(224)。私たちは「完全に解決」されることを望みがちだけれども、著者は「完全に解決されたケースはない」というところを「批評のいいところ」と言う。説得的で面白い読みが可能であればあるほど、その作品の奥深さの証明にもなるし、その作品を読む人間の面白みでもある。もちろん著者が言うように「批評する時の解釈には、正解はないが間違いはある」(12-13)。書かれたことや映された映像など、すでに形づくられたテクストのなかから、どれだけ多様でおもしろい読みを提示できるのか、それが「批評」なのだろう。本書を読んで、本書で扱われている作品を本書で得た視点で見直したいとおもうとともに、そのときには自分なりの視点でも読み解きたいとおもった。

 

参考文献

北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か:不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』書肆侃侃房、2019年。

*1:著者は『批評の教室:チョウのように読み、ハチのように書く』という本も書いており、どちらかというとこちらの方が廣野本と比較されるべきかもしれない。

【読書感想文】賀茂道子『ウォー・ギルト・プログラム:GHQ情報教育政策の実像』

 

 

 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(WGIP)は、右派論壇が日本人の戦後の歴史観を「自虐史観」や「GHQによる洗脳」と批判する際に持ち出すものとしてよく目にする。最近では都市伝説系YouTuberの動画でも、「WGIP」がカジュアルな仕方で取り上げられているのを目にしてわりと浸透してるなとショックだった*1。私自身は右派論壇が想定する「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」による洗脳には懐疑的だったが、そもそもそれがどのようなものなのかを知らなかった。そこで賀茂道子『ウォー・ギルト・プログラム:GHQ情報教育政策の実像』を読んでみた。

 非専門家としての本書への雑駁な感想を言うならば、情報量が多く、また初めて知ることもたくさんあり面白い。そして膨大な一次資料から、当時の占領軍や日本政府の思惑などを読みとって再構成する作業は大変な苦労があったと推察でき、すごいの一言。ただ、占領期に関する専門書に触れるのは初めてということもあって、ところどころ一読では追いきれないところもあった。著者は本書出版後に、光文社新書で『GHQは日本人の戦争観を変えたか:「ウォー・ギルト」をめぐる攻防』という新書を書いている。こちらは未読なのでわからないが、もしかするとこちらは本書を内容的に圧縮したもので、より読みやすいのだろうか。

 

「ウォー・ギルト・プログラム」とは

 まず「ウォー・ギルト・プログラム」*2とは、GHQ民間情報教育局(Civil Information and Education Section: CIE)が行った、「メディアを利用した情報教育政策の一つ」(2)である。CIEによる「ウォー・ギルト・プログラム」の開始理由は、「戦争開始の目的が自衛のためでもアジア解放のためでもなかったこと、日本は「軍事的な完全敗北」をし、敗因は軍将校たちの戦略や統率力が劣っていたことにあること、日本軍は残虐行為を行ったこと、そしてこれは人道的に許されるものではないことを、日本国民に強く理解させる必要がある」(86)ということだとされる。本書の第2章から第6章までのタイトルが大ざっぱにCIEがプログラムのなかで取り組んだもの、または取り組もうとしたものである。それは、日本人に「「軍事的な完全敗北」を認識させる」(第2章)こと、「「残虐行為」を理解させる」(第3章)こと、「「戦争の真実」を提示する」(第4章)こと、「東京裁判を受け入れさせる」(第5章)こと、そしてCIE自身が「原爆投下に向きあう」(第6章)といったことである。こうした取り組みのなかで、新聞の連載記事をつかった「太平洋戦争史」の掲載、ラジオを使った啓蒙活動、日本の新聞各社への報道規制や指導といったことが行われた。

 

本書の特徴

 私は本書以外の「ウォー・ギルト・プログラム」関連の書籍を読んだことがないため、他の著作と比較しての「特徴」ではないが、本書を読んでいて特筆すべきいくつかの点について列挙する。

 

①米国の膨大な一次資料

 第一に、本書の特徴はアメリカ側の膨大な一次資料を扱っていることである。そもそも「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」という言葉を用いて、現在にいたる右派論壇に影響を与えた江藤淳自身はただ一つの史料にのみ基づき、その出典も明らかにしていなかった*3。これに対して本書は「ウォー・ギルト・プログラム」に関連する米国の一次資料を大量に用いて、その全容を解明しようとしている。

 

②「ウォー・ギルト・プログラム」の包括的な把握

 第二に、本書の特徴は「ウォー・ギルト・プログラム」の施策を包括的に把握している点である。プログラムのなかで行われた「太平洋戦争史」(新聞連載)、「真相はこうだ」(ラジオ)、「真相はこうだ質問箱」(ラジオ)、「真相箱」(ラジオ)、さらには新聞各社への指導や懇談会など幅広い施策を分析対象にしており、そうすることでプログラムの全容を明らかにしようとしている。

 

③「ウォー・ギルト・プログラム」の区分

 第三に、本書の特徴は「ウォー・ギルト・プログラム」の三つの段階をそれぞれ精査し、さらに第一段階を戦中の対日心理作戦からの延長線上で捉えていることである。

 プログラムは、占領期になっていきなりゼロからスタートしたというよりは、戦中にアメリカが行っていた「対日心理作戦」の延長線上で組まれた。つまり戦中に行われた捕虜への聞き取り調査やビラ宣伝のノウハウや、日本人に対する米国側の倫理的な違和感に起因する「戦争の有罪性」の理解が「ウォー・ギルト・プログラム」にも引き継がれた。「対日心理作戦」は米国がどのように日本人と向きあい理解しようとしたかの過程でもあり、このことを詳しく書いた第1章は面白い。

 占領初期から始まった第一段階では、「国民から軍国主義思想を排除するという長期的な目的だけでなく、「軍事的な完全敗北」を理解させ、占領を軌道に乗せるという短期的な政治目的があった」(88)。「短期的な政治目的」は占領期初期の日本政府と占領軍とのせめぎ合いのなかで出てきた目的である。そのせめぎ合いは「無条件降伏」に関するものである(第2章)。一方で米国は「無条件降伏」ということで「ポツダム宣言の条件以外は認めない完全降伏」を理解するが、他方で日本は「ポツダム宣言に書かれていない事項に関しては、条件闘争が可能」だと理解する(62)。日本政府は「国体護持」のためにも、占領の統治形態を占領軍による直接統治ではなく、日本政府を介した「間接統治」だと楽観的に理解した(63)。こうした日本政府の画策を阻止するためにも、占領軍は日本に「完全な軍事敗北」を知らしめる必要ができた。このあたりの占領軍と日本政府との齟齬についての記述は興味深いものだった。占領軍の肩を持つ気はないけれども、この期に及んで国体護持を目論む日本政府の行動にはかなり当惑しただろうとおもう。

 第二段階は1946年の1月と6月(このあいだは第一段階と並行)を経て始まる(180)。第二段階では、天皇の「人間宣言」や公職追放の影響によって、ある程度軍国主義の名残りがなくなり、そして占領政策も軌道にのったため「宥和路線」へと舵がきられる(第5章)。その結果、「ラジオから共産主義者が姿を消し、〔日本軍による〕さまざまな残虐行為の暴露計画が中止となるなど、国民感情への配慮がなされるようになった」(192)。次第に「プログラム自体が下火になっていった」(209)が、「一九四七年末に行われた東京裁判での東條英機の弁論が、新たな事態を引き起こし」(210)、プログラムの第三段階の必要性が生じた。

 第三段階の必要性が生じたのは、東條が「敗戦の罪を認める一方で、開戦に関しては一貫して自衛戦争であった」と主張し、その「毅然とした態度」に一定の賛辞の声が盛り上がったためである(210-211)。そのため第三段階では「東京裁判判決および横浜裁判判決の理解のサポート」(214)が主な目的とされた(詳しくは209 ff.)。しかし「東條賛美の盛り上がりは一時的にすぎず、東京裁判判決への受け入れにおいて影響を及ぼすものではないとCIEが判断した」ことで、第三段階の提言書でなされた個々の制作はほとんど実行されなかった(215)。

 他方で「原爆投下への国民の態度」(212)も占領軍にとって都合が悪かった。ただしCIEにとって原爆批判への懸念はあったものの、「CIEは原爆投下を正当化するための情報発信に関し積極的とはいえず、どちらかといえば、「寝た子を起こすな」状態であった」(239)とされる。ところでCIEが「ウォー・ギルト・プログラム」で企図したことの一つは、日本国民に「戦争の有罪性」を理解させることだった。この「戦争の有罪性」とは「たとえ敵であろうが、戦争の勝利のためであろうが、非人道的な行為は罪であるということであり、それは国際法に違反するからではなく、人としての道にはずれるから」(247)というものである。そうだとするならば、この「戦争の有罪性」は原爆投下にも当てはまる。したがって、CIEは日本国民に「戦争の有罪性」を理解させるだけではなく、自分たち米国が行った原爆投下の「戦争の有罪性」についても向きあわなければならなかった。このようにCIEは「戦争の有罪性」に関してジレンマを持ちながら、原爆投下へ向き合わざるをえず、その葛藤が第6章で描かれており、とても興味深い。

 

④「戦争の有罪性」

 第四の特徴は、本書が「ウォー・ギルト」を「戦争の有罪性」と訳出し(7)、その具体的な内実を明らかにしようとする点である。著者のまとめによると、そもそも「ウォー・ギルト・プログラム」を問題視した江藤淳が、「プログラムの目的を、日本が引き起こした戦争は侵略戦争であったとの歴史観を提示することにあるとし、「戦争の有罪性」とは「戦争の侵略性」であると示唆した」ことによって、「「戦争の有罪性」を「戦争の侵略性」に置くという枠組みが前提条件」となったとされる(14)。本書は、「戦争の有罪性」という言葉を、「侵略戦争」や「捕虜虐待」「住民虐殺」などの「法的有罪性」だけではなく、「道義的有罪性」も含めて理解する。つまり「捕虜虐待のような法的なだけでなく、自国の兵士に対する非道な扱いのような人道的な見地からの罪も含まれていた」(254)*4。この「人道的な見地」は西欧的倫理観であり、当時の日本国民には欠けているものだった。「敵であれいったん捕虜にした後はそれまでの戦闘をねぎらい正当な扱いをするべきと考える西欧的精神に対し、捕虜になるのは恥ずべきことであり、ましてや平手打ちや殴打は日常生活で通常行われている慣習であるため、容認されるべきと考えていた日本的精神の間には大きな差があった。」(115-116)。そのため「戦争の有罪性」を理解させるというプロジェクトは、たんに大本営報道規制によって日本国民から隠されていた諸々の虐待の真実を提示するだけではなく、「それらの行為がなぜ罪なのか」(81)を理解させることも含まれている。

 

プログラムによって問われなかった国民と天皇の有罪性

 「ウォー・ギルト・プログラム」開始のもとになったCIE設立指令a三項には、「すべての階層の日本人に、敗戦の真実、ウォー・ギルト(War Guilt)[…]を周知させる」(2)とあり、戦犯とされた軍国主義者たちだけでなく、日本国民自身の「ウォー・ギルト」=「戦争の有罪性」を日本国民に周知させる必要が明記されていた。しかし「CIEは、「ウォー・ギルト・プログラム」開始から一貫して、国民を軍国主義者にだまされた存在として位置づけ、「戦争の責任と有罪性」を軍国主義者に負わせてきた」(262)とされる。「戦争の有罪性」は、法的な責任だけでなく、普遍的な人権感覚にもとづく道義的な責任も含むため、捕虜虐待や住民虐殺を行った責任者としての上官だけでなく、それらを実際に実行した「兵士一人ひとり」、ひいてはそうした行為を許す「日本という社会」にまで当てはまるはずの概念である(265)。しかしCIEは、一つに「占領を円滑に遂行する」ために「国民の反感」を買わないようにするという理由と、いま一つに国民の有罪性と責任が天皇の有罪性と責任への議論に波及しないようにするという理由によって、「国民の有罪性」および「国民の責任」を実際に問うことはしなかったとされる(264)。

 占領当初、CIEは日本政府が「民主化のペースを落とし、天皇論議をさせないように企てている」(121)と分析。そこでCIEは「言論の自由」を促進するために、政治犯として捕まっていた共産主義者たちをラジオに出す(121 ff.)。そのなかで「天皇論議」もなされた(125 ff.)。しかし年が明けて1946年1月から共産主義者の出演は下火になっていく(181 ff.)。そもそも占領軍にとって「天皇を利用して占領政策を推し進めることは、かなり早い段階での既定路線」(264)だった。そしてラジオで盛り上がった天皇論議も「象徴天皇制」(127)を受け入れる際の下地を作っただけで、天皇の有罪性と責任や天皇制の廃止といった議論にはつながらなかった。

 「国民の有罪性」が問われず、国民自身が「戦争の有罪性」を認識できなかった結果として、「一九五二年、サンフランシスコ講和条約発効後、日本各地で戦犯救済のための署名活動がさかんになった」ことが指摘される(266)。著者が指摘するように、「もし本当に残虐行為に対する有罪性が理解できていたとしたら、はたしてこれほど大規模な運動が繰り広げられたであろうか。つまり、この運動の盛り上がりは、「ウォー・ギルト・プログラム」による「戦争の有罪性」が、国民に理解されず浸透しなかったことを意味している」(266)。著者自身は指摘していないが、戦犯を「英霊」としてあがめたり、「日本人に対する罪」の被害者である特攻隊の人々などの被害者性を無視してただ「英霊」として見なすといった見方は、まさに「戦争の有罪性」が理解されていない証左のようにおもわれる。

 

読んだあとにいわゆる「WGIP」について思ったこと

 本書を読んで、あらためていわゆる「WGIP」について思ったのは、右派論壇が言うような「洗脳」や「自虐史観」の押し付けといった単純な物語は「ウォー・ギルト・プログラム」にはないということである*5。著者が言うように、「最も盛んに情報発信が行われた東京裁判開始までの前半部〔第一段階〕が、「ウォー・ギルト・プログラム」のハイライトであった」(254)。第二段階(1946年上半期から)ではすでに、日本の国民感情を考慮した「宥和路線」がとられていたし、東京裁判・横浜裁判の理解を促進するために企図された第三段階もそのほとんどが実行されずに終わった。もしかすると、CIEとしてはもっと日本人に西洋的な価値観や倫理観を植え付け(そう言いたければ「洗脳」し)たかったのかもしれないが、日本人は手ごわかったようだ。もちろんまったく影響はなかったとは言えず、「太平洋戦争史」や「真相はこうだ」、「真相はこうだ質問箱」そして「真相箱」といったものは、戦中には知りえなかった「真実」(ただし米国側の色もついた「真実」)を日本人に知らしめるという効果はあったのだろう(267 f.)。

 また、CIEが「国民の有罪性」や「天皇の有罪性」についてそれほど切り込まなかったことは戦後の日本の歴史にさまざまな課題を残す結果となったようにおもわれる。

 

参考文献

賀茂道子『ウォー・ギルト・プログラム:GHQ情報教育政策の実像』、法政大学出版局、2018年。

*1:コヤッキースタジオ(2022年7月12日の視聴時点での登録者数約69万人、当該動画の再生回数は約28万8千回。):

学校は洗脳教育のための場所だった。体育座りが使われ続ける理由がヤバい【 都市伝説 洗脳 アメリカ GHQ 】 - YouTube

→ただし動画制作者自身に右派論壇のような何らかの明確な政治思想があるとはおもえない。単純に「陰謀論」のネタの一つとして紹介しているのだろう。

*2:本書ではいわゆる「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は「ウォー・ギルト・プログラム」という名称で呼ばれる。その理由と、「ウォー・ギルト」という言葉の訳し方については6頁以降を参照。

*3:江藤が依拠したとおもわれる史料を著者が見つけたときのことについては「あとがき」(274)に言及がある。

*4:自国の兵士に対する非道な扱いは「日本人に対する罪」(42)であり、これも「戦争の有罪性」に含まれる。捕虜にせよ自国民にせよ、命を大事にしない日本人は「西欧的価値観・倫理観をもってしては理解できないもの」(42)だった。日本人との倫理観の違いについて、米国は「対日心理作戦」において戦中から分析しており、そこで培った日本人観が占領時のプログラムにおける「戦争の有罪性」概念にも引き継がれていると著者は理解する(例えば108)。そのため著者は「対日心理作戦」と「プログラム」との連続性を強調する。

*5:「ウォー・ギルト・プログラム」を「侵略戦争観を国民に提示し理解させ、その意味において東京裁判と一体化したもの」とする見方(おそらく右派論壇で共有される見方)と、本書との違いについては、終章に三点明確に述べられている(254 ff.)

【読書感想文】『未来世紀ブラジル』と『バトル・オブ・ブラジル』

 

映画『未来世紀ブラジル』のあれこれ(※ネタバレを含む)

 『未来世紀ブラジル』は1985年に公開されたディストピアSF映画モンティ・パイソンのメンバーの一人として主にアニメーションを担当していたテリー・ギリアムによる作品。よくジョージ・オーウェルの『1984』と比較され、たしかにその影響はある。とはいえ、ギリアムがイメージするディストピアは、『1984』のそれとは違って見える。一方でオーウェルが描くディストピアは、(「プロール」を除く)党員たちに対する徹底した監視が存在する緊張感が張り詰めた社会である。他方でギリアムが描くディストピアは、ギリアムの風刺的な作風や荒唐無稽な想像力によって、同じ全体主義的な官僚社会を描いておきながらも、どこか滑稽さがある社会である。

 初めてこの映画を観たとき次のような感想をもった。つまり、日々管理社会の抑圧にさらされている主役サムが、夢で観た理想の女性を現実で目撃し、彼女(ジル)を救おうと行動に出るが管理社会の手から逃れることはできず...という全体主義の恐ろしさを描いたディストピア映画として。しかし何度か観るうちに、これは夢のなかでしか逃避できない人間サムが、夢と現実を取り違えたあげく一方的に空回りして、ジルと自分を窮地に陥れてしまう悲劇だと分かった。夢のなかでスーパーマンになって理想の女性を救おうとするサムは、現実でそれを実行しようとして失敗し、最終的にまた夢のなかに逃避する。最後のこの悲劇的なシークエンスは、その暗さのために、制作会社のユニバーサルと揉めて、その箇所を削除してハッピーエンドにするバージョンが作られた、ということは『未来世紀ブラジル』のことを少し調べた人であれば知っていることだろう。

 

『バトル・オブ・ブラジル』

 『未来世紀ブラジル』という映画は、その本編だけでなく、先述のような制作会社との攻防戦もおもしろい。その顛末を書いたのが『バトル・オブ・ブラジル』(以下、BOB)である。この「戦い」は、BOBの著者マシューズが指摘するように、『未来世紀ブラジル』が現実になったかのような様相を呈している。というのは、「ユニヴァーサルは大手の映画会社の中でも最大の規模であり、もっとも企業体制が整っていて、彼〔ギリアム〕が映画で描いた情熱なき官僚社会に酷似した組織」(BOB, 56)であり、他方でギリアム自身は、サムよろしく、自らの空想を現実にしようとその組織と対峙するからである。

 主な対立の構図は、監督のテリー・ギリアム(+製作者のアーノン・ミルチャン)対ユニヴァーサルの社長シドニー(シド)・シャインバーグである。一方で自らの創造を自らの裁量で結実させたい芸術家ギリアム。他方でティーンエイジャーも含めた幅広い層の集客を狙いたいシャインバーグ。

 ギリアムにとって、自分の作品を他人にカットされ編集されることは「虐待」だった。ギリアムがシャインバーグへ宛てた文章には次のように書かれている。

僕の名が映画に付いている限り、映画と僕とはひとつの、不可分の存在なのだ。映画に対してなされた虐待は、そのまま僕に対してなされた虐待なんだ。一つひとつのカットが僕にとっては身を切られるように痛い。(BOB, 153)

私自身論文を書いていたときは、つねに文字数を二倍ほど超過して、そこから切り詰めるということをしていた。そのため、投稿した論文は可能なかぎり圧縮したものだった。しかし査読論文の場合には、それが公開されるまでには査読をへる必要がある。査読者から指摘されたことについては、論文への寄与度が低いと思われる内容であっても場合によっては応答しなければならない。その応答によって増えた文字数分は当然、元あった注や主張を削除したりすることでねん出する必要がある。それはギリアムが言うように、「身を切られるように痛い」。

 ギリアムとシャインバーグとの対立はテレビや新聞などといったメディア上でも展開され、『未来世紀ブラジル』の公開をめぐる対立はスキャンダルとなった(BOB, 165ff.)。絶大な権力に対して、ギリアムとミルチャンが仕掛けるゲリラ戦もおもしろい。二人は、公開中止となっている『未来世紀ブラジル』を、非公式に映画学校の学生たちや批評家たちに公開して口コミを広げて、ユニヴァーサルが公開せざるをえない状況を作り出そうとした。そのなかでもとくにロサンゼルス映画批評家賞を獲得しようとするゲリラ戦はスリリングだ(BOB, 第12章)。

 もちろん映画が商業作品であるかぎり、より多くの観客を狙う映画会社のほうにも理があるし、作品のクオリティを高めるためにも作者以外の視点が入ることは重要である(ただし映画は大規模になればなるほど監督一人で作るものではなく、脚本、撮影、美術、演技など様々な局面で多くのプロフェッショナルが関わる。そのため、ある程度のクオリティは担保されている確率が高いようにおもわれる)。じじつ、シャインバーグは『ジョーズ』や『ET』に関わっており、実績もあった。さらに『未来世紀ブラジル』の騒動以降も『ジュラシックパーク』や『シンドラーのリスト』にクレジットされている*1。結局、「バトル・オブ・ブラジル」はギリアムの勝利で終わり、『未来世紀ブラジル』はギリアムが望む編集版で公開された。それでもこの「バトル」は、多くの人々にとって「一つの突発的事件であり、二人の頑固者同士の対決」(BOB, 257)だった。実際、今でも映画会社とクリエーターとのあいだの駆け引きは残っているし、これからも残り続けるだろう。

 

補遺:ジル(キム・グライスト)の扱いについて

 BOBの筋とは違うものの、気になることが書かれていた。それはいわゆる「ヒロイン」のジルとジルを演じるキム・グライストへのギリアムの扱い方についてである。最初の方で書いたように、『未来世紀ブラジル』のなかのジルは夢想家サムの妄想に巻き込まれた本作品内の最大の被害者と言ってもいい。ジルは自ら大型トラックを運転したり、自宅の階下に住む家族の父親が、情報省のミスによって不当逮捕された際にも、家族の代わりに自ら情報省へ出向いて抗議するといったように、主体的で正義感のある人物として描かれている。しかしサムと出会ってからは、ジルは基本的にはサムの妄想に押し流されて、サムに好感情を抱くようになる(ジルがサムに好感情を抱くロジックはこの映画のなかで最も難解な箇所かもしれない)。そして終盤では、ジルは自らの裸体にリボンを結んで、自らをサムへの「プレゼント」にする。当初主体性があるように描かれていたジルは、最終的にはサムの客体になる。BOBによると、当初はジルはもっと主体的に描かれるはずだったようだ。「ギリアムが語るところによれば、本来脚本ではジルの役割はもっとずっと大きかったという。だが撮影が進行していくうちに、ジルの存在は、サムの想像力の産物という域をあまり出ないところまで縮んでいった。」(BOB, 98)。

 ジルの役割を切り詰めることになった原因として、BOBによると、ジル役のキム・グライストが自分の役に乗れず、他の役者やスタッフと打ち解けることができなかったことが挙げられている(BOB, 98)。というのも、グライストは、自分の裸体が透けて見える衣装のベールや、サムとのラブシーンに対して、「神経質」になっていたからである(BOB, 98-100)。ギリアム自身は、「これらのシーンを撮る時は、グライストの気持ちを考慮して、スタッフの数も必要最小限」(BOB, 100)にしたそうである。しかしそれでもグライストは、そうしたシーンに対して神経質なままであったため、ギリアムは最終的に憤慨してしまう。

 ところで昨今では性的なシーン(インティマシー・シーン)の撮影に際して、制作側と俳優とのあいだに立って、両者の合意をとりつけるために調整する「インティマシー・コーディネーター」が注目されている*2。『未来世紀ブラジル』の撮影のときにもインティマシー・コーディネーターがいれば、グライストがより安心して演じる環境ができ、それによって、ジルの役割も、ギリアム(ら)の脚本のとおりに、より大きく主体的に描かれ、グライストとギリアム両方が納得いく結果になっていたのではないかと悔やまれる。そして私としてもサムの想像力の域を超えたジルの活躍が見たかった。

 

参考文献

マシューズ, ジャック『バトル・オブ・ブラジル:『未来世紀ブラジル』ハリウッドに挑む』柴田元幸訳、ダゲレオ出版、1989年。:BOBと略記