【読書感想文】『未来世紀ブラジル』と『バトル・オブ・ブラジル』

 

映画『未来世紀ブラジル』のあれこれ(※ネタバレを含む)

 『未来世紀ブラジル』は1985年に公開されたディストピアSF映画モンティ・パイソンのメンバーの一人として主にアニメーションを担当していたテリー・ギリアムによる作品。よくジョージ・オーウェルの『1984』と比較され、たしかにその影響はある。とはいえ、ギリアムがイメージするディストピアは、『1984』のそれとは違って見える。一方でオーウェルが描くディストピアは、(「プロール」を除く)党員たちに対する徹底した監視が存在する緊張感が張り詰めた社会である。他方でギリアムが描くディストピアは、ギリアムの風刺的な作風や荒唐無稽な想像力によって、同じ全体主義的な官僚社会を描いておきながらも、どこか滑稽さがある社会である。

 初めてこの映画を観たとき次のような感想をもった。つまり、日々管理社会の抑圧にさらされている主役サムが、夢で観た理想の女性を現実で目撃し、彼女(ジル)を救おうと行動に出るが管理社会の手から逃れることはできず...という全体主義の恐ろしさを描いたディストピア映画として。しかし何度か観るうちに、これは夢のなかでしか逃避できない人間サムが、夢と現実を取り違えたあげく一方的に空回りして、ジルと自分を窮地に陥れてしまう悲劇だと分かった。夢のなかでスーパーマンになって理想の女性を救おうとするサムは、現実でそれを実行しようとして失敗し、最終的にまた夢のなかに逃避する。最後のこの悲劇的なシークエンスは、その暗さのために、制作会社のユニバーサルと揉めて、その箇所を削除してハッピーエンドにするバージョンが作られた、ということは『未来世紀ブラジル』のことを少し調べた人であれば知っていることだろう。

 

『バトル・オブ・ブラジル』

 『未来世紀ブラジル』という映画は、その本編だけでなく、先述のような制作会社との攻防戦もおもしろい。その顛末を書いたのが『バトル・オブ・ブラジル』(以下、BOB)である。この「戦い」は、BOBの著者マシューズが指摘するように、『未来世紀ブラジル』が現実になったかのような様相を呈している。というのは、「ユニヴァーサルは大手の映画会社の中でも最大の規模であり、もっとも企業体制が整っていて、彼〔ギリアム〕が映画で描いた情熱なき官僚社会に酷似した組織」(BOB, 56)であり、他方でギリアム自身は、サムよろしく、自らの空想を現実にしようとその組織と対峙するからである。

 主な対立の構図は、監督のテリー・ギリアム(+製作者のアーノン・ミルチャン)対ユニヴァーサルの社長シドニー(シド)・シャインバーグである。一方で自らの創造を自らの裁量で結実させたい芸術家ギリアム。他方でティーンエイジャーも含めた幅広い層の集客を狙いたいシャインバーグ。

 ギリアムにとって、自分の作品を他人にカットされ編集されることは「虐待」だった。ギリアムがシャインバーグへ宛てた文章には次のように書かれている。

僕の名が映画に付いている限り、映画と僕とはひとつの、不可分の存在なのだ。映画に対してなされた虐待は、そのまま僕に対してなされた虐待なんだ。一つひとつのカットが僕にとっては身を切られるように痛い。(BOB, 153)

私自身論文を書いていたときは、つねに文字数を二倍ほど超過して、そこから切り詰めるということをしていた。そのため、投稿した論文は可能なかぎり圧縮したものだった。しかし査読論文の場合には、それが公開されるまでには査読をへる必要がある。査読者から指摘されたことについては、論文への寄与度が低いと思われる内容であっても場合によっては応答しなければならない。その応答によって増えた文字数分は当然、元あった注や主張を削除したりすることでねん出する必要がある。それはギリアムが言うように、「身を切られるように痛い」。

 ギリアムとシャインバーグとの対立はテレビや新聞などといったメディア上でも展開され、『未来世紀ブラジル』の公開をめぐる対立はスキャンダルとなった(BOB, 165ff.)。絶大な権力に対して、ギリアムとミルチャンが仕掛けるゲリラ戦もおもしろい。二人は、公開中止となっている『未来世紀ブラジル』を、非公式に映画学校の学生たちや批評家たちに公開して口コミを広げて、ユニヴァーサルが公開せざるをえない状況を作り出そうとした。そのなかでもとくにロサンゼルス映画批評家賞を獲得しようとするゲリラ戦はスリリングだ(BOB, 第12章)。

 もちろん映画が商業作品であるかぎり、より多くの観客を狙う映画会社のほうにも理があるし、作品のクオリティを高めるためにも作者以外の視点が入ることは重要である(ただし映画は大規模になればなるほど監督一人で作るものではなく、脚本、撮影、美術、演技など様々な局面で多くのプロフェッショナルが関わる。そのため、ある程度のクオリティは担保されている確率が高いようにおもわれる)。じじつ、シャインバーグは『ジョーズ』や『ET』に関わっており、実績もあった。さらに『未来世紀ブラジル』の騒動以降も『ジュラシックパーク』や『シンドラーのリスト』にクレジットされている*1。結局、「バトル・オブ・ブラジル」はギリアムの勝利で終わり、『未来世紀ブラジル』はギリアムが望む編集版で公開された。それでもこの「バトル」は、多くの人々にとって「一つの突発的事件であり、二人の頑固者同士の対決」(BOB, 257)だった。実際、今でも映画会社とクリエーターとのあいだの駆け引きは残っているし、これからも残り続けるだろう。

 

補遺:ジル(キム・グライスト)の扱いについて

 BOBの筋とは違うものの、気になることが書かれていた。それはいわゆる「ヒロイン」のジルとジルを演じるキム・グライストへのギリアムの扱い方についてである。最初の方で書いたように、『未来世紀ブラジル』のなかのジルは夢想家サムの妄想に巻き込まれた本作品内の最大の被害者と言ってもいい。ジルは自ら大型トラックを運転したり、自宅の階下に住む家族の父親が、情報省のミスによって不当逮捕された際にも、家族の代わりに自ら情報省へ出向いて抗議するといったように、主体的で正義感のある人物として描かれている。しかしサムと出会ってからは、ジルは基本的にはサムの妄想に押し流されて、サムに好感情を抱くようになる(ジルがサムに好感情を抱くロジックはこの映画のなかで最も難解な箇所かもしれない)。そして終盤では、ジルは自らの裸体にリボンを結んで、自らをサムへの「プレゼント」にする。当初主体性があるように描かれていたジルは、最終的にはサムの客体になる。BOBによると、当初はジルはもっと主体的に描かれるはずだったようだ。「ギリアムが語るところによれば、本来脚本ではジルの役割はもっとずっと大きかったという。だが撮影が進行していくうちに、ジルの存在は、サムの想像力の産物という域をあまり出ないところまで縮んでいった。」(BOB, 98)。

 ジルの役割を切り詰めることになった原因として、BOBによると、ジル役のキム・グライストが自分の役に乗れず、他の役者やスタッフと打ち解けることができなかったことが挙げられている(BOB, 98)。というのも、グライストは、自分の裸体が透けて見える衣装のベールや、サムとのラブシーンに対して、「神経質」になっていたからである(BOB, 98-100)。ギリアム自身は、「これらのシーンを撮る時は、グライストの気持ちを考慮して、スタッフの数も必要最小限」(BOB, 100)にしたそうである。しかしそれでもグライストは、そうしたシーンに対して神経質なままであったため、ギリアムは最終的に憤慨してしまう。

 ところで昨今では性的なシーン(インティマシー・シーン)の撮影に際して、制作側と俳優とのあいだに立って、両者の合意をとりつけるために調整する「インティマシー・コーディネーター」が注目されている*2。『未来世紀ブラジル』の撮影のときにもインティマシー・コーディネーターがいれば、グライストがより安心して演じる環境ができ、それによって、ジルの役割も、ギリアム(ら)の脚本のとおりに、より大きく主体的に描かれ、グライストとギリアム両方が納得いく結果になっていたのではないかと悔やまれる。そして私としてもサムの想像力の域を超えたジルの活躍が見たかった。

 

参考文献

マシューズ, ジャック『バトル・オブ・ブラジル:『未来世紀ブラジル』ハリウッドに挑む』柴田元幸訳、ダゲレオ出版、1989年。:BOBと略記